山岡鉄舟の名言56選!修身二十則の全文と「晴れてよし曇りてもよし」の歌
江戸城開城の前に駿府で西郷隆盛と談判し、無刀流を開いた剣術家の山岡鉄舟。数えで15歳で書いた修身二十則の全文から、剣と禅、武士道を語った言葉まで、山岡鉄舟の名言を元の文と現代語訳で読めます。「命もいらず名もいらず」が誰の言葉かも分かります。
Writer
公式ライター Activel編集部
「うそをついてはいけない」「腹を立てるのは道ではない」。幕末の剣術家・山岡鉄舟が、数えで15歳の時に自分の戒めとして書いた修身二十則の言葉です。山岡鉄舟はのちに、徳川慶喜の使者として駿府(今の静岡市)へ乗り込んで西郷隆盛と談判し、江戸城の明け渡しにつなげました。剣と禅を突きつめて、無刀流という剣の流派も開いています。
山岡鉄舟の名言には、西郷に「たとえ朝命でも承知しない」と言い切った言葉も、亡くなる日に人払いの訳を問われて「昼寝の邪魔になるから」と答えた言葉も残っています。その一方で、「命もいらず名もいらず」のように、鉄舟の言葉として広まっていても元は別の人の言葉だったものもあります。どの名言にも現代語訳があるので、昔の言葉づかいに慣れていなくても意味が分かります。
山岡鉄舟のプロフィール
山岡鉄舟とは、幕末から明治にかけて生きた剣術家です。幕臣として徳川慶喜の使者を務めて江戸城の開城に力を尽くしました。明治に入ると天皇の侍従(そば近くに仕える役)になり、1880年には無刀流を開いています。
基本プロフィール
山岡鉄舟は江戸に生まれ、剣と禅と書を生涯続けました。鉄舟は号(書や文に使う別の名)で、ふだんの名は鉄太郎です。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 山岡鉄舟(やまおか てっしゅう) |
| 通称・名 | 鉄太郎・高歩 |
| 生まれ | 1836年7月23日(天保7年6月10日)・江戸 |
| 亡くなった日 | 1888年7月19日(数えで53歳) |
| 学んだ剣 | 真影流・北辰一刀流・一刀流 |
| 開いた流派 | 無刀流(1880年) |
| 主な役目 | 精鋭隊頭・静岡藩権大参事(藩の重役)・明治天皇の侍従 |
| 体格 | 六尺二寸(約188cm)・二十八貫(約105kg) |
体格は1930年の伝記、葛生能久『高士山岡鉄舟』に書かれた数字です。当時としてはかなりの大男でした。
剣と禅を修行し、西郷隆盛と談判して無刀流を開いた歩み

山岡鉄舟は、幕府の御蔵奉行だった小野朝右衛門の子として生まれました。9歳で真影流を学び始め、父の転任で飛騨高山へ移ります。修身二十則を書いたのは、この高山にいた数えで15歳の時です。その後に両親を相次いで亡くし、17歳で弟たちを連れて江戸へ戻りました。20歳の頃に鎗の師だった山岡静山が急死し、その妹の英子と結婚して山岡家を継いでいます。当時の暮らしは貧しく、仲間からは「襤褸鉄(ぼろてつ)」とあだ名され、本人も平気でそう名乗ったという逸話が伝記に残っています。
1868年3月、徳川慶喜の警固にあたる精鋭隊の隊頭だった鉄舟は、慶喜が官軍に従う気持ちでいることを伝える使者として駿府へ向かいました。官軍の陣の中を名乗って通り抜け、西郷隆盛と談判します。国立国会図書館の解説によると、この談判から勝海舟と西郷隆盛の会談へ、さらに江戸城の開城へと話が進みました。山岡鉄舟と西郷隆盛のやりとりは、鉄舟本人の筆記に詳しく残っています。
明治に入ると静岡藩の役職などを経て、1872年に明治天皇の侍従になりました。役目のかたわら、13歳の頃に始めた禅と、1863年から浅利又七郎に学んだ剣の修行を続けています。浅利には勝てず、一人で向かう姿を思い描くと、その幻が山のように立ちはだかったといいます。1880年3月30日の明け方、いつものように剣を構えるつもりになると、浅利の幻が見えなくなったと鉄舟は書き残しています。天龍寺の滴水和尚からも修行の完成を認められ(印可)、無刀流を開きました。1883年には谷中に全生庵という寺を建てました。亡くなったのは1888年7月19日で、全生庵の年譜には坐禅のまま亡くなったとあります。鉄舟に勝海舟・高橋泥舟(義兄)を合わせた「三舟」の呼び名は、鉄舟が亡くなって5年後の1893年の伝記に「幕府の三舟」として出てきます。今は幕末の三舟という言い方が広まっています。
座右の銘
山岡鉄舟の座右の銘にいちばん近いのは、修身二十則です。1930年の伝記には、この20条は「十五歳の時、座右の銘として作られた」とあります。ただ、本人がこれを座右の銘だと語った記録は見つかりませんでした。
山岡鉄舟の名言56選(修身二十則の全文を含む)
山岡鉄舟の名言には、自分で署名して書いた文もあれば、講話を書き取った言葉、周りの人が伝えた話もあります。どれに当たるかは、言葉の下の本の名と年で分かります。元の文は国立国会図書館の公開本によるもので、自筆の原本ではありません。旧字は新字に直し、句読点はそろえています。現代語訳は Activel編集部によるものです。
修身二十則の全文(数えで15歳の時の言葉)
山岡鉄舟の修身二十則は、人としてやってはいけないことと、やるべきことを、20条に書いたものです。末尾に「嘉永三年庚戌正月行年十五才の春謹記 小野鉄太郎」とあり、1850年の正月に、山岡家を継ぐ前の名前で書かれています。全文は国立国会図書館の『鉄舟随筆』で見ることができます。1905年の『座右之銘』のように「家訓二十則」と呼ぶ本もありますが、『鉄舟随筆』の題は「修身二十則」です。
01「うそいふ可からず候」
うそをついてはいけません
— 修身二十則 第一条(1850年・『鉄舟随筆』1903年に載る)
02「君の御恩は忘る可からず候」
主君の恩を忘れてはいけません
— 修身二十則 第二条
03「父母の御恩は忘る可からず候」
父と母の恩を忘れてはいけません
— 修身二十則 第三条
04「師の御恩は忘る可からず候」
師の恩を忘れてはいけません
— 修身二十則 第四条
05「人の御恩は忘る可からず候」
人から受けた恩を忘れてはいけません
— 修身二十則 第五条
06「神仏並に長者を粗末にす可からず候」
神仏と目上の人を粗末にしてはいけません
— 修身二十則 第六条
07「幼者をあなどる可からず候」
幼い者を見下してはいけません
— 修身二十則 第七条
08「己れに心よからざることは、他人に求む可からず候」
自分がされていやなことを、人に求めてはいけません
— 修身二十則 第八条
09「腹を立つるは、道にあらず候」
腹を立てるのは、人の道ではありません
— 修身二十則 第九条
10「何事も不幸を喜ぶ可からず候」
どんなことでも、不幸を喜んではいけません
— 修身二十則 第十条
11「力の及ぶ限りは、善き方につくす可く候」
力の及ぶかぎり、善いことに尽くしなさい
— 修身二十則 第十一条
12「他をかへりみずして、自分の善き事ばかりす可からず候」
人のことを顧みず、自分に都合のよいことばかりしてはいけません
— 修身二十則 第十二条
13「食するたびに、かしよくのかんなんを思ふ可し すべて草木土石にても、粗末にす可からず候」
食事のたびに、作物を育てて取り入れる苦労(稼穡の艱難)を思いなさい。草木や土や石であっても、粗末にしてはいけません
— 修身二十則 第十三条
14「殊更に着物をかざり、或はうはべをつくらふものは、心ににごりあるものと心得ふ可く候」
わざわざ着物を飾ったり、うわべを繕ったりする者は、心に濁りがあるものと心得なさい
— 修身二十則 第十四条
15「礼儀を乱る可からず候」
礼儀を乱してはいけません
— 修身二十則 第十五条
16「何時何人に接するも、客人に接する様に心得ふ可く候」
いつ誰と接する時も、お客さまに接するように心得なさい
— 修身二十則 第十六条
17「己れの知らざる事は、何人にてもならふ可く候」
自分の知らないことは、相手が誰であっても習いなさい
— 修身二十則 第十七条
18「名利の為めに、学問技芸す可からず候」
名誉や利益のために、学問や技芸をしてはいけません
— 修身二十則 第十八条
19「人にはすべて、能、不能あり、いちがゐに人をすて、或は、わらふ可からず候」
人には誰でも得手不得手があります。ひとくくりに人を見捨てたり、笑ったりしてはいけません
— 修身二十則 第十九条
20「己れの善行を、ほこりがほに、人に知らしむ可からず、すべて我心に耻ぢざるに務む可く候」
自分の善い行いを得意げに人に知らせてはいけません。何事も、自分の心に恥じないように努めなさい
— 修身二十則 第二十条
武士道を語った言葉
山岡鉄舟の武士道の言葉は、25歳の時に書いた短い文と、1887年に語った講話に残っています。講話は門人の籠手田安定に求められて開いたもので、その筆記が1902年に『武士道』という本になりました。書いた文ではなく、語った言葉を書き取ったものです。
21「善なりと知りたる上は直に実行に顕はし来るを以て武士道とは申すなり」
善いことだと分かったなら、すぐに実行に表す。それを武士道というのです
— 1860年、短い文「武士道」(『鉄舟随筆』1903年に載る)
22「武夫と云ふものは、出処進退を明かにし、確乎として自己の意志を決したる以上は、至誠以て一貫するのが、真の武人で亦武士道である」
武士というものは、身の処し方をはっきりさせ、自分の意志をしっかり決めたら、誠を尽くして貫く。それが本当の武人であり、武士道です
— 1887年の講話(口述をまとめた『武士道』1902年に載る)
23「道は千載不滅だよ。如何なる大敵でも、道には勝てぬ」
道は千年たっても滅びないよ。どんな大敵でも、道には勝てない
— 1887年の講話(口述をまとめた『武士道』1902年に載る)
24「人は至誠以て四恩の鴻徳を奉答し、誠を以て私を殺して、万機に接すれば、天下敵なきものにして、是れが乃ち武士道である」
人が誠を尽くして受けた恩に応え、誠をもって私心を消して、あらゆる物事にあたれば、天下に敵はない。これが武士道である
— 1887年の講話(口述をまとめた『武士道』1902年に載る)
25「善き所はどしどし採つて是れを食ひ、且つ是れを消化して、我が物とせよ」
外国の善い所はどんどん取り入れて、よくかみ砕き、消化して、自分のものにしなさい
— 1887年の講話(口述をまとめた『武士道』1902年に載る)
26「人である以上は、何人に限らず、人の本分を尽さねばならぬ」
人である以上、誰であっても、人としての務めを果たさなければならない
— 1887年の講話(口述をまとめた『武士道』1902年に載る)
剣と無刀流の言葉
無刀流とは、1880年に山岡鉄舟が開いた剣の流派で、今は一刀正伝無刀流の名でも伝わっています。無刀流の意味を、鉄舟は「心の外に刀なし」と説明しました。刀を持たない剣術という意味ではありません。23歳の時の文でも、剣法を修めるのは敵を切るためではないと書いています。勝海舟は、鉄舟が剣術で天下一の人なのに一生の間、生き物を殺したことがなかったと語っています。
27「世人剣法を修むるの要は、恐らくは敵を切らんが為めの思ひなるべし。余の剣法を修むるや然らず」
世の人が剣法を修めるのは、おそらく敵を切るためだろう。私が剣法を修めるのは、そうではない
— 1858年、「修心要領」(『鉄舟随筆』1903年に載る)
28「余の剣法を学ぶは、偏に心胆錬磨の術を積み、心を明めて以て己れ亦天地と同根一体の理、果して釈然たるの境に到達せんとするにあるのみ」
私が剣法を学ぶのは、ひとえに心と胆を鍛え、心を明らかにして、自分もまた天地と一つであるという道理を、すっかり納得できる境地に達したいからだ
— 1858年、「修心要領」(『鉄舟随筆』1903年に載る)
29「世人或は余を見る事猛虎の如しと、然れども余未だ甞つて殺生を試みたる事なきのみならず、一点他人に加害したる事も亦あらざるなり」
世の人は私を猛虎のように見ることがある。けれども私は殺生をしたことがないばかりか、人に少しの危害も加えたことがない
— 1858年、「修心要領」(『鉄舟随筆』1903年に載る)
30「真に胆の豪なるものは、時に応じ事に接して変化縦横、人其消息を知るべからざるなり」
本当に胆の据わった人は、時と事に応じて自在に動くので、周りの人にはその心の内が分からないものだ
— 1858年、「心胆錬磨之事」(『鉄舟随筆』1903年に載る)
31「生死などに執着しては、到底大事は出来ざるものなり」
生死にこだわっていては、とても大きなことはできない
— 1859年、「生死何れが重きか」(『鉄舟随筆』1903年に載る)
32「余の剣法や、只管其技を之れ重ずるにあらざるなり、其心理の極致に悟入せん事を欲するにあるのみ」
私の剣法は、技だけを重んじるものではない。その心の働きの行き着く所を悟りたいだけだ
— 1880年、「剣法と禅理」(『鉄舟随筆』1903年に載る)
33「夫れ剣法正伝真の極意者、別に法なし、敵の好む処に随ひて勝を得るにあり」
剣法の本当の極意に、特別な方法はない。敵がしたいように動かせて、その動きに従って勝つことにある
— 1882年、「剣法邪正弁」(『鉄舟随筆』1903年に載る)
34「無刀とは、心の外に刀なしと云ふ事にして、三界唯だ一心也。内外本来無一物なるが故に、敵に対する時、前に敵なく後に我なく、妙応無方、朕迹を留めず。是余が無刀流と称する訳なり」
無刀とは、心の外に刀はないということだ。この世のすべては心一つで、内にも外にももともと何もない。だから敵に向かう時、前に敵はなく後ろに自分もなく、自在に応じて跡を残さない。これが無刀流と名づけた訳である
— 「剣術の流名を無刀流と称する訳書」(年は不明・葛生能久『高士山岡鉄舟』1930年に載る)
35「無刀流剣術者、勝負を争はず、心を澄し胆を錬り、自然の勝を得るを要す」
無刀流の剣術は、勝負を争わない。心を澄ませて胆を鍛え、自然に勝ちを得ることを大切にする
— 「無刀流剣術大意」(年は不明・葛生能久『高士山岡鉄舟』1930年に載る)
36「無刀とは何ぞや。心の外に刀なきなり。敵と相対する時、刀に依らずして心を以て心を打つ、是を無刀と謂ふ」
無刀とは何か。心の外に刀はないということだ。敵と向き合う時、刀に頼らず、心で心を打つ。これを無刀という
— 「無刀流剣術大意」(年は不明・葛生能久『高士山岡鉄舟』1930年に載る)
37「初心は何の心もなし。只一途に相手へ向つて打込むで行く計りなり」
初心の時には何の考えもない。ただひたすら相手に向かって打ち込んでいくだけである
— 「門人に示す」(年は不明・葛生能久『高士山岡鉄舟』1930年に載る)
今の剣道につながる江戸から明治の剣術の流れは、剣道の歴史の記事で年表と一緒にたどれます。
西郷隆盛との談判で語った言葉
山岡鉄舟が西郷隆盛との談判で語ったのは、主人の徳川慶喜の処遇をめぐる言葉です。銃を持った官軍の中を名乗って通り、西郷には「たとえ朝命でも承知しない」と言い切りました。やりとりは、本人の存命中の1882年に出た『明治戊辰山岡先生与西郷氏応接筆記』(『応接筆記』)に残っていて、国立国会図書館の公開本で読めます。「拙者は唯一死あるのみ」という言葉は後の『鉄舟随筆』に出てくるもので、『応接筆記』には見当たりません。
38「朝敵徳川慶喜家来山岡鉄太郎大総督府ヘ通ル」
朝敵である徳川慶喜の家来、山岡鉄太郎が、大総督府(官軍の総司令部)へ通る
— 1868年3月、六郷川を渡った先の官軍の陣で(『応接筆記』1882年)
39「只空ク人ヲ殺ノ理ナシ何ノ難キ事カ之アラン」
むやみに人を殺す理由はないはずだ。何の難しいことがあろうか
— 1868年3月、勝海舟に(『応接筆記』1882年)
40「夫テハ王師トハ云難シ天子ハ民ノ父母ナリ理非ヲ明ニスルヲ以テ王師トス」
それでは天子の軍とは言えません。天子は民の親です。道理の正否を明らかにするからこそ天子の軍なのです
— 1868年3月、駿府で西郷隆盛に(『応接筆記』1882年)
41「主人慶喜ヲ独リ備前ヘ預ル事決テ相成サル事ナリ」
主人の慶喜を一人だけ備前の藩へ預けることは、決してできません
— 1868年3月、駿府で西郷隆盛に(『応接筆記』1882年)
42「タトヒ朝命タリト雖モ拙者ニ於テ決テ承伏セザルナリ」
たとえ天子の命令であっても、私は決して承知しません
— 1868年3月、駿府で西郷隆盛に(『応接筆記』1882年)
43「生死顧みるに足らず、唯だ誓ふ所は、天の道に違はざるにあるのみ」
生死は気にかけるほどのことではない。誓うのはただ、天の道に背かないことだけだ
— 1869年の署名がある「戊辰の変余が報国の端緒」(『鉄舟随筆』1903年に載る)
「晴れてよし曇りてもよし富士の山」の歌と悟りの詩
「晴れてよし曇りてもよし富士の山」は、山岡鉄舟の作として伝わる和歌です。晴れていても曇っていても富士山の姿そのものは変わらないように、周りの様子がどう変わっても人の志は変わらない、という意味に読めます。鉄舟は歌のほかに、1880年に悟った時の詩や、剣を詠んだ道歌、財布の中身を笑う俳句も残しています。
44「晴れてよし曇りてもよし富士の山もとの姿は変らざりけり」
晴れてもよい、曇ってもよい。富士山のもとの姿は変わらない
— 1872年12月の署名がある文の中の歌(『鉄舟随筆』1903年に載る)
45「剣を学び心を労す数十年、機に臨み変に応じて守りいよいよ堅し。一朝塁壁皆摧破し、露影湛如として還た全きを覚ゆ」
漢詩の原文: 学剣労心数十年。臨機応変守愈堅。一朝塁壁皆摧破。露影湛如還覚全。
剣を学んで心を砕くこと数十年。その場に応じて守りはますます堅くなった。ある朝、その守りの壁がすべて砕け、露の光が澄みわたるように、すべてが満ちていると気づいた
— 1880年、「剣法と禅理」の末の詩(『鉄舟随筆』1903年に載る)
46「心を論ずれば総て是れ心中を惑はす。輸贏に凝帯すれば還つて工を失ふ。剣家精妙の処を識らんと要せば、電光影裏春風を断つ」
漢詩の原文: 論心総是惑心中。凝帯輸贏還失工。要識剣家精妙処。電光影裏断春風。
心をあれこれ論じるのは、かえって心を惑わす。勝ち負けにこだわれば技も失う。剣の極みを知りたければ、それは稲妻が光る一瞬に、形のない春風を断つところにある
— 1880年4月の署名。「剣法と禅理」の末の詩(『鉄舟随筆』1903年に載る)
47「剣道は我も打たれず人打たず無事に行くこそ妙とこそしれ」
剣の道は、自分も打たれず、人も打たず、無事に行くことこそが見事なのだと知りなさい
— 道歌(年は不明・葛生能久『高士山岡鉄舟』1930年に載る)
48「うち合す剣のもとに迷なく身をすてゝこそ生くる道あれ」
打ち合う剣の下で迷わず身を捨ててこそ、生きる道がある
— 道歌(年は不明・葛生能久『高士山岡鉄舟』1930年に載る)
49「梅咲くや財布のうちも無一物」
梅が咲いたなあ。財布の中も何もない
— 俳句(年は不明・葛生能久『高士山岡鉄舟』1930年に載る)
周りの人に語った言葉と最期の言葉
山岡鉄舟が周りの人に語った短い言葉は、勝海舟の評論や、1930年の伝記、葛生能久『高士山岡鉄舟』に残る話で、本人が書いた文ではありません。
50「大凡人たるものは、誠忠が肝要で有る」
およそ人というものは、誠の心が何より大切である
— 12〜13歳の頃の言葉として勝海舟が伝える(『武士道』1902年)
51「困難も人の所為だと思ふと堪らぬが、自分の修養だと思へば、自然楽みのあるものだ」
困ったことも人のせいだと思うとやりきれないが、自分の修養だと思えば、自然と楽しみがあるものだ
— 義弟の石坂周造の負債を背負わされても、石坂を手放さない訳を語って(葛生能久『高士山岡鉄舟』1930年)
52「斯る危急の際にても、読みたる文の妙味が知れる位でなければ、真の胆勇とは称し難い」
そんな危ない時でも、読んだ文の味わいが分かるくらいでなければ、本当の胆勇とは言いにくい
— 維新の時の危機の中でも本を読んでいたと語った石坂周造に(葛生能久『高士山岡鉄舟』1930年)
53「余は大日本国臣山岡鉄太郎なり」
私は大日本の国の臣、山岡鉄太郎である
— 清国の大臣が開いた書や絵の会で、受付に住所と名前を問われて(葛生能久『高士山岡鉄舟』1930年)
54「予は厳師の難有味を滴水に於て初めて知つた」
私は厳しい師のありがたさを、滴水和尚で初めて知った
— 天龍寺の滴水和尚について(葛生能久『高士山岡鉄舟』1930年)
55「腹張つて苦しきなかに明烏」
腹が張って苦しい中で、夜明けのカラスが鳴いている
— 1888年7月19日の明け方、医師の千葉立造に示した句(葛生能久『高士山岡鉄舟』1930年)
56「なに昼寝の邪魔になるから」
なに、昼寝の邪魔になるからだよ
— 1888年7月19日、亡くなる前に人払いを頼んだ理由を問われて(葛生能久『高士山岡鉄舟』1930年)
「命もいらず名もいらず」は山岡鉄舟の言葉か
「命もいらず名もいらず」は、山岡鉄舟の言葉ではなく、西郷隆盛の言葉です。西郷の言葉を集めた『南洲翁遺訓』の第30条に、「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、仕末に困るもの也。此の仕末に困る人ならでは、艱難を共にして国家の大業は成し得られぬなり」とあります。この条に鉄舟の名は出てきません。
それでも鉄舟の言葉のように紹介されるのは、西郷が鉄舟を同じような言葉で評した話が残っているためと考えられます。1903年の『鉄舟随筆』で、勝海舟は、西郷が鉄舟について「あんな命も金も名もいらぬ人間は始末に困る」と語ったと伝えています。そのまま「併し此の始末に困る人ならでは、共に天下の大事を語る訳にもまいりませぬ」と続いているので、鉄舟は言った側ではなく、言われた側と考えるのが自然です。
書に書いた言葉と、鉄舟の言葉として出回る言葉
山岡鉄舟の名言として紹介される中には、本人が考えた言葉ではないものや、『鉄舟随筆』などの本に見つからないものもあります。人に話す前に知っておくと安心です。
「金を積んで子孫に遺しても、子孫が守るとは限らない」から始まる言葉は、鉄舟が1886年5月5日に家族のために残した書として『鉄舟随筆』に載っています。ただ、鉄舟自身がこの書に「此先賢之格言」と記しているとおり、昔の賢人の言葉を書き写したものです。お金や本よりも人知れず善い行いを積むほうが子孫のためになる、という内容で、明治の本には中国の司馬温公(司馬光)の家訓の言葉として出てきます。
「精神満腹」は、精神が腹いっぱいに満ちているという字の通りの言葉で、鉄舟が清水次郎長の度胸に感心して書き贈った額の文字だと、1931年の『侠将八代六郎』などに書かれています。話した言葉ではなく、書の言葉です。
「自然は教師なり」で始まる言葉と、「宇宙と自分は、そもそも一体であり」で始まる言葉は、『鉄舟随筆』『武士道』『山岡鉄舟伝』『高士山岡鉄舟』を調べても、この形では見つかりませんでした。「宇宙と自分は」で始まる言葉は「修心要領」の「天地と同根一体」という考えに近いので、人に伝える時は「修心要領」の文を使うと確かです。
よくある質問(Q&A)
山岡鉄舟の名言について、「命もいらず名もいらず」は誰の言葉か、修身二十則は何歳の時のものかなどの疑問に答えます。
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