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千代の富士の名言50選!「体力の限界」など引退の言葉と稽古の言葉を解説

千代の富士の名言50選!「体力の限界」など引退の言葉と稽古の言葉を解説

大相撲の第58代横綱、千代の富士の名言です。肩の脱臼で引退を考えた23歳の本音から、横綱になっても語った「不安を消すには稽古しかない」、涙をこらえた「体力の限界」まで。千代の富士の名言は、不安な時にもう一度踏ん張る力をくれます。

2026.11.07 | スポーツ

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公式ライター
Activel編集部

千代の富士は、小さな体で優勝31回を重ねた大相撲の第58代横綱です。千代の富士の名言には、肩の脱臼で引退を考えた23歳の本音や、「不安を消すには稽古しかない」という言葉、引退会見で涙をこらえた「体力の限界」があります。横綱でさえ不安だったと知ると、千代の富士の名言は自分の不安に向き合う力をくれます。

千代の富士のプロフィール

千代の富士は、1955年に北海道の海の町で生まれた力士です。120キロ台の体で自分より大きな相手を次々に倒し、引退の後は九重親方として弟子を育てました。

基本プロフィール

本名は秋元貢です。千代の富士という名は、先代の師匠である千代の山と、のちの師匠である北の富士から取って付けられました。

項目 内容
名前 千代の富士 貢
本名 秋元 貢
生年月日 1955年6月1日
没年月日 2016年7月31日(61歳)
出身 北海道松前郡福島町
身長・体重 183cm・126kg
最高位 第58代横綱
幕内優勝 31回
通算成績 1045勝437敗159休
受賞 国民栄誉賞(1989年)

生い立ち・幼少期

千代の富士は、カレーの具がアワビという海の町で育った少年です。夏休みは夜が明けると外へ飛び出し、暗くなるまで遊ぶうちに足腰が鍛えられていきました。同じ北海道出身の大鵬には憧れていても、自分が相撲を取るとは思っていませんでした。

中学3年の夏、地元に来た大相撲の巡業で、同じ町出身の元横綱千代の山が、同じ年の子より大きな体に目を留め、家まで誘いに来ます。一度は断ったものの、東京へ行けて飛行機に乗れるという話に心が動きました。函館空港へ向かう車で一緒になった力士に「俺のことを知っているか」と聞かれ、知らないと答えた相手が、横綱になったばかりの北の富士で、のちの師匠でした。

入門から引退、親方までのキャリアの歩み

力士の番付は、下から序ノ口、序二段、三段目、幕下と続き、その上の十両と幕内の力士が関取と呼ばれます。1970年秋場所に15歳で初土俵を踏んだ千代の富士は、1974年九州場所で十両に、翌年秋場所で幕内に上がりました。ところが左肩の脱臼が癖になり、幕内から幕下まで落ちました。1979年春場所には右肩まで脱臼します。そこで腕立て伏せで肩に筋肉をつけ、投げに頼る相撲を、相手のまわしの前の部分を取って一気に出る相撲へ変えていきました。

ウルフというあだ名は、目つきの鋭さをオオカミにたとえた北の富士が付けたものです。1981年初場所に関脇で初優勝して大関へ上がり、同じ年の名古屋場所でも優勝して横綱になりました。1988年には53連勝を記録し、翌1989年に相撲界で初めての国民栄誉賞を受けています。

1990年3月に史上初の通算1000勝を達成しました。翌1991年の夏場所は、初日に18歳の貴花田に敗れ、3日目に貴闘力にも敗れた夜に引退を表明しました。翌年に九重部屋を継いでからは、大関千代大海らを育てています。2015年には還暦の土俵入りを披露し、その翌年、61歳で亡くなりました。

座右の銘

千代の富士の座右の銘に近いのは、連勝が止まった大乃国戦を振り返って口にした「負けて覚える相撲かな」です。1991年の著書にも『負けてたまるか』という題を付けています。座右の銘をはっきり挙げた発言は見つかりませんでした。

千代の富士の名言50選

千代の富士の歩みと、各時期に語った主な名言の年表

千代の富士の名言で目を引くのは、強さを誇る言葉より、不安や悔しさをそのまま口にした言葉です。その言葉は、インタビューで明かした負けた夜の話まで知ると重みが変わります。「心が弱いから番付けが落ちる」と自分を叱った若手の頃も、「弱いから稽古する」と番付の下の相手の部屋へ通った横綱の頃も、本人があとから振り返っています。

入門の頃と、肩の脱臼に苦しんだ若手時代の名言

脱臼は、入門して数年の三段目の頃に左肩から始まりました。主なものだけで左肩9回、右肩2回に及びました。23歳の時には本気で引退を考えています。その時に自分に課したのが、毎日の腕立て伏せのノルマでした。

01「1つは『東京に連れて行ってやる』ということ。もう1つは『飛行機に乗せてやる』ということでした」

— 2015年公開のインタビューで、入門を決めた理由を聞かれて

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発言時期: 2015年2月公開のインタビューで、1970年の夏を振り返って

発言状況: 中学3年の千代の富士は、最初の勧誘を「相撲は嫌だ」と断りました。札幌にも行ったことのない少年を動かしたのが、部屋の人が持ちかけたこの2つの話です。父は「もう中学校3年の男だから自分で決めろ」と言いました。母と姉は反対しましたが、東京へ行けて飛行機に乗れるのだからと本人が説得しています。

02「入門してすぐに親のありがたみを知りましたね」

— 2015年公開のインタビューで、新弟子の生活を振り返って

03「とにかくあのころは朝から晩まで無我夢中。自分の体の小さなことなど、考えている暇はなかった。稽古でも、一日に最低3回はやったなあ」

— 引退して親方になった直後の回想で、入門の頃について

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発言時期: 引退して親方になった直後の回想(話は1970年代の前半)

発言状況: 1日3回の稽古の相手は、同じくらいの力の若手、古株の兄弟子、そして部屋の親方たちでした。のちに師匠となる北の富士からは、ゆうべ飲みすぎたからお前ぐらいがちょうどいいと、二日酔いの薬がわりに呼ばれたこともあったと笑って話しています。毎日、頭のてっぺんから土俵の砂で真っ黒になっていたそうです。

04「どんなことがあっても辞められない、と思いましたよ。ケガは再三しましたが、その都度、『もうダメかな』とも思いましたが、心が弱いから番付けが落ちるのだ、と思っていました」

— 2015年公開のインタビューで、辞めたいと思ったことはないかと聞かれて

05「最初にはずれたときに自分で入れられたので病院に行かなかったのですよ。それがいけなかった」

— 2015年公開のインタビューで、初めて肩を脱臼した三段目の頃について

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発言時期: 2015年2月公開のインタビューで、三段目の頃を振り返って

発言状況: 初めて外れたのは左肩で、その時は何がなんだか分からなかったそうです。突っ張っていって相手に腕をたぐられると外れるようになり、このあと長く脱臼に苦しむことになりました。

06「まあ、小さな身体で大きな相撲を取っていたからね」

— 2015年公開のインタビューで、若い頃のケガを振り返って

07「手術すると、完治するまで2年掛かるというんだ。そうすると、番付は幕内から序ノ口まで落っこちちゃうもんネ。…じゃあ、辞めるしかない。あのときは、ホントに引退することを考えたよ。まだ23歳だったけど」

— 引退の後の回想で、1979年春場所の右肩の脱臼について

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発言時期: 引退の後の回想(話は1979年春場所)

発言状況: 7日目の播竜山戦で、それまで大丈夫だと思っていた右肩が外れました。手術か、力士を辞めるかしかないと思い詰めていた時に、お世話になっていた病院の院長から「辞めるのはいつでもできる、もう一度肩に筋肉の鎧をつけてやってみろ」と言われます。ちょうど痛みが取れて、「このまま死ねるか」という気持ちが湧いてきた頃でした。

08「一番手っ取り早くて効果的なトレーニングは、腕立て伏せ。一日、最低でも500回、というノルマを決め、これを達成しないうちは寝ないことにしたんだ」

— 引退の後の回想で、右肩の脱臼の後のトレーニングについて

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発言時期: 引退の後の回想(話は1979年春場所の後)

発言状況: 筋肉をつければ肩はもう抜けないという院長の言葉を励みに始めたトレーニングです。そのうちに腕から肩にかけての筋肉は、指でつまんでもつまめないほど張ってきました。それから1年で流れが変わり、1980年春場所から番付を上げていきました。

09「もう『やった!』という感じでした。同時に『これからが本番だ』と心をいれかえましたよ」

— 2015年公開のインタビューで、関取になった時を振り返って

稽古と不安についての名言

千代の富士の稽古の話に欠かせないのが、苦手な琴風に勝つために始めた、ほかの部屋へ出向いて稽古する出稽古です。ある朝、稽古場に師匠の姿がなく、聞けば琴風のいる部屋にいるとのことでした。自分にも来いということだと察して通い始め、のちに対戦成績は22勝6敗まで差が開きました。ここからは、横綱になっても負ければ不安で、弱いから稽古すると言い切った人の言葉です。

10「負ければ、不安なんだよ。もう勝てないんじゃないかと思うぐらい追いつめられるんだよ。あの時もそうだった。これから先、オレはどうなるんだろうって考えたよ」

— 2014年11月、九州場所の朝稽古の取材で、小錦に敗れた1984年を振り返って

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発言時期: 2014年11月(話は1984年秋場所)

発言状況: 新鋭の小錦に初めて当たった1984年秋場所で、千代の富士は押しに体を浮かされて完敗しました。福岡市の九重部屋の宿舎を訪ねた記者が当時の思いを聞いた時の答えです。負けた夜は食事に行っても気持ちはうわの空で、このまま終わってしまうのかと、そんなことばかり頭の中を回っていたそうです。

11「だから、やるんだよ。何をって。稽古に決まってるだろ。やるしかないんだよ。不安を消すには稽古しかない。稽古して自分を追い込んで納得するまでやる。そうすると、ここまでやったんだから負けるはずがないって、自分の中で思えるようになる。そこまで追い込まないと土俵には上がれない」

— 2014年11月、九州場所の朝稽古の取材で

12「自分が弱いんだから当たり前でしょ。横綱だろうが何だろうが勝てない相手がいれば、稽古して研究するのは当然。弱いから稽古する。どこがおかしいの」

— 親方の頃の取材で、横綱なのに出稽古へ行ったことを聞かれて

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発言時期: 親方の頃の取材(話は1984年秋場所の後)

発言状況: 小錦に完敗した後、千代の富士は小錦のいる高砂部屋へ出稽古を繰り返しました。胸を貸す立場の横綱がほかの部屋へ出向くこと自体が珍しかった時代です。横綱の誇りを捨てたとも取れる行動ではないかと尋ねた記者に、親方は間を置かずにこう答えました。

13「強くなりたければ、自分より強い人と稽古するのが一番。そこへ行って最初は通用しないかもしれないけど、自分の課題もわかってくる。稽古を続けて少しでも通じるようになれば、それが自信になるんだ」

— 2014年の取材で、当時の力士の稽古について

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発言時期: 2014年の取材

発言状況: 当時大関だった稀勢の里は横綱になれるかと記者に尋ねられ、稽古の仕方がまったく違うと答えた後の言葉です。自分より強い人がいるのに、なぜその人のところへ行って胸を借りないのかと問い、それをしない限り上には行けないと言い切りました。

14「最初はやっぱり行きづらかったよ。でも、師匠の考えてることは分かっていたし、それから何年も通ったなあ。もちろん、初めのころは完敗さ。でも、そのうちに何とか対応できるようになり、やがて形勢が逆転。最後のころは、琴風が何をやろうとしているか、顔を見ると、一発で分かるようになったよ」

— 引退の後の回想で、苦手な琴風への出稽古について

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発言時期: 引退の後の回想(話は1980年ごろから)

発言状況: 押し相撲の琴風に5連敗するほど苦手にしていた千代の富士は、師匠の北の富士に促され、琴風がいる佐渡ケ嶽部屋へ通い始めました。行きづらかったのは、相手が自分より番付も年齢も下だったからです。1981年初場所の初日には、その琴風を一気に寄り切り、初優勝への勢いをつけました。

15「楽をして強くなろうなんて思ったら大間違いですよ」

— NHKアーカイブスの人物のページに残る言葉

16「今日いい稽古をしたからって明日強くなるわけじゃない。でも、その稽古は2年先、3年先に必ず報われる。自分を信じてやるしかない。大切なのは信念だよ」

17「流した汗はウソをつかない」

18「いま強くなる稽古と、3年先に強くなるための稽古を両方しなくてはいけません」

19「一日やそこらで苦手を克服できるものではない」

20「自信は自分でつけていきたい」

初優勝から横綱、53連勝までの名言

1981年の千代の富士は、関脇での初優勝から半年で横綱に駆け上がりました。ところが、昇進の喜びもつかの間、師匠に引退の話をされ、横綱として最初の場所でケガをしています。北の湖という壁の話から、連勝が止まって相手の手を払った日の悔しさまで、横綱の頃の言葉には勝つことの苦しさが出ています。

21「思うがままに取っていたね。次の日の新聞に何が書かれるか、見るのが楽しみでした」

— 2015年公開のインタビューで、1981年初場所の初優勝を振り返って

22「横綱の名を汚さぬよう、一生懸命頑張ります」

— 1981年7月21日、横綱昇進を伝えられた時の口上

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発言時期: 1981年7月21日

発言状況: 名古屋市の九重部屋の宿舎で、日本相撲協会の使者から昇進を伝えられた時の口上です。半年前の大関昇進の時の口上は「大関の名を汚さぬよう、一生懸命頑張ります」で、今回はその地位の名前を変えただけの短い言葉でした。

23「師匠からは、横綱昇進が決まった名古屋のお寺の宿舎で『成績が悪かったら辞めるしかないぞ』と、すぐに引退のことを言われました」

— 2015年公開のインタビューで、1981年の横綱昇進を振り返って

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発言時期: 2015年2月公開のインタビューで、1981年を振り返って

発言状況: 師匠は元横綱の北の富士です。めでたい時に何だとは思わなかったのかと聞かれ、「それは思いましたよ。でも、時間をおいて考えると、それもそうだなと思いました」と答えています。休場なんかしたらもう引退だと思った、とも話しました。

出典: 笹川スポーツ財団 Voice of Legends(2015年2月)

24「もう、『引退』という文字が頭に浮かびましたよ」

— 2015年公開のインタビューで、新横綱の場所のケガを振り返って

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発言時期: 2015年2月公開のインタビューで、1981年秋場所を振り返って

発言状況: 横綱になって最初の場所の2日目に足首をケガし、3日目から休みました。目の前は真っ暗だったそうですが、次の九州場所に間に合わせます。10番勝てればいいと思っていたその場所で、後半に2連敗しながら優勝決定戦へ持ち込み、そのまま優勝しました。

25「いい方向で考えられるようになり、何にも負けなくなりました。『なにくそ』という感じになりましたね」

— 2015年公開のインタビューで、足首のケガの後の心の変化について

26「自分のことを気持ち的に追い込むとロクなことがない。それは昔からそうでした」

— 2015年公開のインタビューで、決定戦に強かった理由を聞かれて

27「あの人は邪魔な人でしたね(笑)とにかく、北の湖関がいなければ、どんなに楽だろうかと思っていました。でも大きな壁があったからこそ、自分の相撲も伸びたのだと思いますよ」

— 2015年公開のインタビューで、自分が横綱に上がる前の、壁だった北の湖について

28「さすがに大きな人だなと思いましたよ」

— 2015年公開のインタビューで、大鵬の45連勝を抜いた夜、福岡の店で当の大鵬親方に会った話

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発言時期: 2015年2月公開のインタビューで、1988年を振り返って

発言状況: 大鵬の連勝記録を破った日の夜、気分転換に福岡の中洲へ出かけて入った店に、当の大鵬親方がいました。挨拶に行くと「よかったな、これからも頑張れよ」と声をかけられています。大鵬は、子どもの頃から相撲界でただ一人憧れていた人でした。

29「負けたあとで大乃国が手を貸してくれたのだけども『自分で起きられるわ』と手を払ってしまった。腹立たしいというか、悔しくてね。苦い思い出ですよ」

— 2015年公開のインタビューで、連勝が止まった1988年の大乃国戦について

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発言時期: 2015年2月公開のインタビューで、1988年九州場所の千秋楽を振り返って

発言状況: 夏場所7日目から続いた連勝は53まで伸び、双葉山の69連勝に迫るかと騒がれていました。優勝も決めていた千秋楽、相手の大乃国に絶対負けないという余計な自信があったと振り返っています。立ち合いで先手を取られ、寄り倒されました。部屋に帰ってビデオを見て、これは勝てる相撲じゃないと思ったそうです。

30「負けた相撲はよく覚えています。『負けて覚える相撲かな』ですよ」

— 2015年公開のインタビューで、大乃国戦の話の最後に

31「壺より賞の方が重かった」

— 1989年9月29日、国民栄誉賞の表彰式で、両手で抱えるほど重い記念品の壺を贈られて

32「プロはいかなる時でも、言い訳をしない」

33「横綱として休むことはファンを裏切ることになるかもしれない。しかし、本当の裏切りは出場しても横綱らしさを見せられないことだ」

34「横綱の晩年は常に断崖絶壁に背を向けて立たされている状況で、いま何をしなければいけないかを考えていた」

引退の言葉「体力の限界」と引退を語った名言

1991年夏場所の初日、35歳の横綱は18歳の貴花田に敗れました。3日目に貴闘力にも敗れたその夜、引退会見で出たのが「体力の限界」です。千代の富士の引退の言葉には、横綱として土俵に立ち続けた10年の重みがあります。

35「体力の限界、気力もなくなり引退することになりました」

— 1991年5月14日、九重部屋での引退会見で

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発言時期: 1991年5月14日(夏場所3日目の夜)

発言状況: この場所は、2場所続けて休んだ後の復帰の場所でした。九重部屋の会見で、涙をこらえながら話した言葉です。優勝31回の横綱の現役生活は、20年余りでした。

36「しかしあるとき『もう、これは、無理だな』と思った。ボロボロになるまで相撲を取るのも美学ですが、自分の考えで踏ん切りをつけることはできました」

— 2015年公開のインタビューで、引退の決断を振り返って

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発言時期: 2015年2月公開のインタビューで、1991年を振り返って

発言状況: 20数年相撲を取ってくると、なぜ肉離れするのかと思うような、自覚のないケガが増えてきました。体力が落ちたのか、引退かという思いが頭をよぎり、一方で引退はまだ早いという考えも起きました。その行き来の末の決断でした。

出典: 笹川スポーツ財団 Voice of Legends(2015年2月)

37「早く上がってこないと俺が引退してしまうぞ」

— 若手のホープだった貴花田との対戦を周りが望む中、インタビューで

38「ゆうべはゆっくりしたいと思ったが、周りがごちゃごちゃしていて、あまりよく眠れなかった」

— 1991年5月15日、引退の翌日、2度目の会見を開く両国国技館に現れて

39「まぶしいほどの若さだった」

— 著書『負けてたまるか』で、引退の翌日にすれ違った貴闘力について

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発言時期: 1991年に出た著書(話は1991年5月15日)

発言状況: 引退の翌日、国技館の地下の審判委員室へ向かう途中で、前日に敗れた相手の貴闘力とすれ違いました。声をかけると、当時23歳の貴闘力は直立不動で答えています。

親方になってからの名言

九重親方になった千代の富士は、弟子の個性を伸ばす一方で、後の世代の横綱にも遠慮のない言葉を向けました。自分の記録を抜いた白鵬には「おめでとう」と握手し、優勝した朝青龍には厳しい言葉を書いています。

40「やはり型に当てはめることではなく、個性を見出して、それを伸ばすことだと。人から『よいお弟子さんを育てられましたね』というのは嘘だと思います。それは、弟子がそう育ったのですよ」

— 2015年公開のインタビューで、弟子の育て方について

41「完全燃焼したと思う。大関に上がって優勝もしてくれた。よく頑張った」

— 2010年1月13日、弟子の千代大海の引退会見に同席して

42「53連勝が、あらためてすごいことだと思った。悔しさ? 全然ないよ」

— 2010年9月18日、白鵬に連勝記録を抜かれ、「すいません」と頭を下げられた日に

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発言時期: 2010年9月18日(秋場所7日目)

発言状況: 白鵬が54連勝を達成した一番を、九重親方はテレビの解説席で見届けました。取組の後に顔を合わせると、白鵬は思わず苦笑いします。親方は「おめでとう」と握手し、「これからも一番一番、がんばれよ」と肩をたたきました。

43「白鵬がいるから上がれないと、努力をしていない。もう白鵬と半年くらい寝食を共にするくらいの努力をしないと」

— 2015年公開のインタビューで、日本人の横綱が出ないことについて

44「今回はフロック(まぐれ)。15日間うまくいきすぎた。万に一回あるかないかの優勝だと肝に銘じなければいけない」

— 2009年9月、朝青龍の優勝について新聞の連載コラムで

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発言時期: 2009年9月(秋場所の後)

発言状況: 朝青龍が千秋楽の決定戦で白鵬を破って優勝した秋場所の後、九重親方が連載コラム「ウルフの目」に書いた言葉です。その場所の相撲や決定戦の取り口を一通り褒めた上で、こう続けています。

45「ああいう人がいたから、私も頑張ることができた。大きな目標であり、壁だった」

— 2015年11月、北の湖理事長の死去を受けて

46「横綱を経験している人だけ、しかも健康だから出来る。元気にやってきて良かった。感無量です」

— 2015年5月31日、還暦の土俵入りを終えて

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発言時期: 2015年5月31日(60歳の誕生日の前日)

発言状況: 両国国技館で赤い綱を締め、現役の両横綱の白鵬と日馬富士を従えて土俵に上がりました。歴代の横綱で10人目の還暦の土俵入りです。「現役時代を思い出したよ。まんざら、悪くないね」とも話し、館内からは「日本一」の声が飛びました。

九重親方がコラムで取り上げた朝青龍が、自分で語ってきた言葉は、朝青龍の名言で読めます。

弟子や周りの力士が伝える千代の富士の言葉

千代の富士に声をかけられた弟子や力士は、その言葉をあとから明かしています。千代大海は、師匠にほめられたことは本当に数少ないと話していて、初めてほめられた時の言葉もよく覚えていました。

47「でも、これは何か意味があることだから、ここからだぞ、おまえの心に火が付いただろ」

— 弟子の千代大海が伝える、2002年初場所の優勝決定戦で敗れた時の言葉

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発言時期: 2002年初場所(千代大海が語ったのは2026年)

発言状況: 栃東に優勝決定戦で敗れた千代大海が涙を流していると、師匠ももらい泣きしてくれたそうです。今の九重親方である千代大海は、師匠を亡くして10年がたった時の取材でこれを明かしました。先代の言葉は体に刻み込まれている、すべてがきれいな言葉ではないがその中に愛情がある、と語っています。

48「相撲協会でおまえほど稽古している奴はいないって。俺が見た中で、おまえが一番稽古していると」

— 弟子の千代大海が伝える、十両に上がった頃に初めてほめられた言葉

49「酒をやめて相撲だけを考えろ」

— 弟子の千代の国が2023年の引退会見で伝える、初めて幕内から落ちた時の言葉

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発言時期: 千代の国が初めて幕内から落ちた時(伝えたのは2023年7月22日の引退会見)

発言状況: 千代の国はこの言葉の後、約10年間にわたって酒を断ちました。今日までこられたのもあの言葉のおかげだと、師匠を亡くして7年後の引退会見で涙を流しながら感謝しています。

50「(記録達成を)待ちくたびれたぞ」

— 元大関の魁皇が伝える、通算勝ち星の記録に並んだ時の言葉

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発言時期: 魁皇が通算1045勝に並んだ時(伝えたのは2016年9月のコラム)

発言状況: 千代の富士の持つ記録に魁皇が並んだ時、報道陣が親方を連れてきて一緒に写真を撮りました。親方はこの言葉をかけて握手しています。魁皇は、千代の富士の記録は負けたら引退という横綱の地位を守りながらのもので、自分の記録とは中身が別物だと書きました。超えたとは全く思っていないそうです。

よくある質問(Q&A)

Q1. 「体力の限界」の引退の言葉は、いつ、何歳の時のもの?

1991年5月14日、千代の富士が35歳の時の引退会見の言葉です。夏場所3日目に貴闘力に敗れた夜、九重部屋で話しました。

引退のセリフは「体力の限界、気力もなくなり引退することになりました」で、涙をこらえながらの一言でした。

Q2. 千代の富士の引退の理由は?

体力の衰えを自分で認めたからです。本人は2015年公開のインタビューで、「もう、これは、無理だな」と思ったと話しています。

身に覚えのない肉離れが増えていたところへ、1991年夏場所の初日に18歳の貴花田に敗れ、3日目に貴闘力にも敗れて決断しました。

Q3. 「3年先の稽古」は千代の富士の言葉?

千代の富士が作った言葉ではなく、相撲界に伝わる言葉です。目先の勝負にこだわらず、先を見据えて稽古しなさいという戒めです。

その言葉のとおりだったのが千代の富士の稽古でした。何年も出稽古の相手を務めた元大関の琴風は、千代の富士の稽古がまさにそれだと語っています。稽古の貯金が、31回の優勝に生きたのだろうと見ています。

Q4. 千代の富士の脱臼を克服した腕立て伏せは、1日何回?

本人は「一日、最低でも500回」と話しています。達成しないうちは寝ないと決めていたそうです。

脱臼は主なものだけで左肩9回、右肩2回に及びました。1日1000回と伝える報道もありますが、本人が語った回数としては、この500回が確かです。

Q5. 「ウルフ」というあだ名の由来は?

目つきの鋭さから、のちに師匠となる北の富士が名付けたものです。北の富士自身が、後年のコラムで名付け親は私だと明かしました。

1972年に北の富士から「狼」とあだ名を付けられたのが始まりで、それが「ウルフ」になりました。

Q6. 師匠に「やめるときはスパッといこうな」と言われた話は本当?

その言葉のままの発言は、師匠からも本人からも確かめられませんでした。本人がインタビューで語った師匠の言葉は「成績が悪かったら辞めるしかないぞ」です。

横綱昇進が決まった名古屋の宿舎で言われたもので、昇進の時に引退の話をされたという点では、質問の話と同じです。


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