衣笠祥雄の名言60選!鉄人のデッドボールの翌日の言葉と子どもへの思いを解説
野球の衣笠祥雄は、広島カープで当時の世界記録の2215試合連続出場を続けた鉄人です。デッドボールで骨折した翌日に「1球目はファンのために」と語った名言や子どもへの言葉など、衣笠祥雄の名言には好きなことを続ける強さがあります。
Writer
公式ライター Activel編集部
衣笠祥雄は、広島カープで2215試合連続出場という当時の世界記録を作り、鉄人の名で親しまれた野球選手です。衣笠祥雄の名言には、デッドボールで骨折した翌日に代打で出て「1球目はファンのために」と話した言葉もあれば、不振の時も練習を信じると話した言葉もあります。順に読むと、好きなことを毎日続ける強さが見えてきます。
衣笠祥雄のプロフィール
衣笠祥雄は京都で生まれ、平安高校から広島カープに入りました。1970年から引退まで1試合も休まず、チームの5度のリーグ優勝と3度の日本一を支えた選手です。亡くなる4日前まで、解説者として野球を語り続けました。
基本プロフィール
背番号3は、現役の間に永久欠番になりました。通算の数字はNPB(日本野球機構)公式の個人年度別成績に、打点王やMVPは野球殿堂博物館の紹介に載っています。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 衣笠祥雄(きぬがさ さちお) |
| 生年月日 | 1947年1月18日(2018年4月23日に71歳で死去) |
| 出身 | 京都府 |
| 身長・体重 | 175cm・73kg |
| 投打 | 右投げ右打ち |
| ポジション | 内野手(三塁・一塁) |
| 所属 | 広島カープ(1965〜1987年) |
| 背番号 | 28(1965〜74年)・3(1975〜87年) |
| 通算成績 | 2677試合・打率.270・2543安打・504本塁打・1448打点 |
| 主なタイトル | 打点王(1984年)・盗塁王(1976年)・MVP(1984年) |
京都の少年がカープに入るまで
生まれは京都市の東山区です(京都市の市民栄誉賞のページ)。中学で野球を始め、平安高校(今の龍谷大学付属平安高校)では強肩の捕手で4番を打ち、1964年の春と夏の甲子園に出ました。
本人は後に、プロ野球を見たことがないまま入団を決めたと話しています。入団した1965年のキャンプで先輩たちとの差を見せつけられ、最初の2年は遊びに逃げた時期だったと振り返りました。
鉄人と呼ばれた由来と2215試合の歩み

衣笠祥雄が鉄人と呼ばれたのは、入団から10年つけた背番号28と漫画の『鉄人28号』からです。捕手として入り、肩を壊して内野手に移ると、1968年に定位置を取りました。1970年10月19日の巨人戦から、連続試合出場が始まります。1975年に背番号が3に変わり、三塁手としてカープ初のリーグ優勝を経験しました。
1979年は山と谷が続いた年です。5月28日に連続フルイニング出場(試合の初めから終わりまで出続ける記録)が678試合で止まり、8月1日には死球で左肩甲骨を骨折しました。それでも翌日に代打で出て、11月には初の日本一になっています。1980年8月4日に連続試合出場1247試合の日本記録を作り、1984年には打点王とMVPに輝きました。
NPB 公式のセ・リーグの歴史にも残る1987年6月13日、2131試合に届き、ルー・ゲーリッグの2130試合を抜く世界記録を作ります。6月22日に国民栄誉賞を受け、10月22日の2215試合目で現役を終えました。
引退後は解説とコラムの仕事を続け、1996年に野球殿堂に入りました。2018年4月19日にも BS-TBS の中継で解説を務め、その4日後に71歳で亡くなっています。
座右の銘
衣笠祥雄が座右の銘として語った記録は見つかっていません。座右の銘に近い言葉が「限りなき挑戦」で、1984年の著書の題になり、2022年にわかさスタジアム京都に立った銅像の台座にも刻まれています。
衣笠祥雄の名言60選
衣笠祥雄の名言で心に残るのは、インタビューや対談で自分の弱さを隠さずに話した言葉です。鉄人の名とは逆に、記録が怖かった話や、不振で眠れなかった話が出てきます。西本聖や江夏豊など、周りの人が後から明かした言葉もあります。
デッドボールの翌日と三振についての名言
衣笠祥雄のデッドボールの話で有名なのが、1979年8月に骨折した翌日の打席です。全治2週間と診断された次の日に代打で出て、江川卓の球に3球ともフルスイングしました。死球で倒れた時には、駆け寄った投手を気づかいました。翌日の打席については、振る瞬間に左肩が逃げて打てなかったと、後に本人が悔しがっています。
01「1球目はファンのために、2球目は自分のために、3球目は西本君のためにフルスイングしました。それにしても江川君の球は速かった」
— 1979年8月2日、前日の死球で左肩甲骨を骨折したまま代打で出て、江川卓に3球三振した試合の後で
02「そりゃ、バットを振れば痛みも出るでしょう。とはいっても24時間の中の、わずか何秒。そう思えば大したことありませんよ」
— 後年、スポーツライターの二宮清純の取材で、骨折の翌日の打席を振り返って
03「振ってやろうというか、自分では自信があったね。ただ本当に悲しいかな、外に3球投げてきたんだけど、外の球に対して、左肩がこう伸びるでしょ。でも伸びる瞬間にパッと後ろに引いちゃうんだよね。防衛本能でしょうね。ここまでいって、『よしつかまえた!』と思ったら、パッと左肩が逃げちゃう。打てないの。あれが悔しくてねえ」
— 1986年6月6日放送の NHK 特集「17年間休まなかった男」で、骨折の翌日の三振を振り返って
04「俺は大丈夫。それより危ないから早くベンチに帰れ」
— 1979年8月1日、死球で倒れたまま、謝りに駆け寄った西本聖に。西本が2018年に語った言葉
05「大丈夫だから心配するな。それより、勝っていた試合に勝てなくて、お前は損をしたんだぞ」
— 1979年8月1日の夜、謝りの電話をかけた西本聖に。西本が2018年に語った言葉
06「僕はピッチャーによく言いましたよ。『ぶつけるのはいいけど首から下にしてくれ。(頭にぶつけられると)大好きな野球ができなくなるからな』と……」
— スポーツライターの二宮清純の取材で、死球について話した言葉(2024年のコラムに載った)
07「死球は投手の投げ損ないと打者のよける技術の不足が重なったもの。怒るのは自分の責任を棚に上げ他人を責めるに等しい」
— 死球に怒らない理由を書いた本人の著書の一文で、2018年の追悼記事が引いた言葉
08「夜中に目が覚めたら腕が頭の上にあった。腕が上がるならできる」
— 1979年8月、骨折の翌日に。元球団トレーナーの福永富雄が2023年に語った言葉
09「大丈夫だから気にせんでええよ」「痛い、痛い」
— 死球を当てて謝りに来た若手投手に笑顔で返し、その投手がいなくなってからこぼした言葉。元球団トレーナーの福永富雄が2023年に語った
10「僕にとって、三振というのは野球の中の一部ですね。仕方ないですよ、仕方ないって、あきらめてないですよ。少なくとも自分としては振る瞬間は当たると信じているんです。それを時々、おまえわざと三振してるんじゃないのか、なんていう人がいますけど、そうじゃないです。少なくとも自分では信じて力いっぱい振ってるんですよ。それがたまたま、当たらないだけですよ。ははははは」
— 1986年6月6日放送の NHK 特集「17年間休まなかった男」で、三振の数が当時の日本記録に近づいていることを聞かれて
11「それが僕の野球の原点だから」
— フルスイングにこだわる理由を語った言葉。野球を始めた時、球をどこまで飛ばせるかを考えていたと続く(2018年の追悼の記事に載った)
連続試合出場を続けた理由がわかる名言
連続試合出場について衣笠祥雄が話すのは、試合に出ると楽しい、出ないほうが心が痛むという気持ちです。記録の怖さも隠しません。1996年に記録を抜いたカル・リプケンの試合では自ら始球式のボールを投げ、そのリプケンを「かわいそうです」と話しました。
12「死ぬまで野球をやりたい。好きな野球をやりたくて野球選手をやっているので、休みたいという気は起こらない」
— 1987年6月13日、2131試合連続出場の世界記録の日に
13「僕はね、痛みよりも、野球やってるほうが心が楽なんですよ。野球をやらないで、自分がいないチームを家でじっとテレビで見てたら、もっと僕の自分の心は痛むだろう。焦燥感というのかな。それがもっと出る。そういう思いはしたくない。ゲームがあるときは自分が参加していたい。これは僕がプロ入りしたころゲームに出られなかったから、その時の『出たい』という気持ちをいまだに持ってる」
— 1986年6月6日放送の NHK 特集「17年間休まなかった男」で、痛みを押して試合に出る理由を
14「まあ一番に、いつも僕に仕事があったということですね。野球がしたいと思って、それが仕事になったでしょう。ものすごく幸せなことだ。連続試合出場というのは、野球を仕事に選んだ以上、いつも試合に出ていられるということ。僕にとって一番幸せなことじゃないですか」
— 1986年6月6日放送の NHK 特集「17年間休まなかった男」の終わりに
15「実にシンプルです。試合に出られると楽しいし、出られないとつまらない。僕は毎日試合に出たかった。だから頑張った(笑)。試合に出るという喜びが私を頑張らせてくれた。だから練習もできた。」
— 引退後、広島ガスのページのインタビューで、鉄人のエネルギーの源を聞かれて
16「1回から9回まで、試合にずっと出たい。野球を始めた子どもの最初の目標であり、夢だ」
— 試合に出続ける理由を語った言葉(亡くなった2018年の記事に載った)
17「そのときのことをたとえると、砂漠の中を歩いていて、もう限界かなというときに1杯の水と百カラットのダイヤモンドを差し出されて、あなたはどちらを取りますか、と。僕は百カラットのダイヤモンドを選ばなかった。そう、記録を捨てたんです。」
— 1979年5月28日、678試合の連続フルイニング出場が止まった日を、後の取材で振り返って
18「人生の中で、ただひとつ飽きなかったのが野球。野球はいいよ。本当にいいよね」
— 素振りが何より好きだった話の中で、スポーツライターの二宮清純に(2018年の原稿に載った)
19「周りの人は『別にヒットは打たなくていい。試合に出ればいいんだから』と簡単に言う。それがものすごく怖かった。誰でもできることが出来なかったらどうなるのか。」
— 1980年8月、1247試合の日本記録を目前に巨人戦が2日続けて雨で流れた頃を振り返って
20「僕も山内さんのように2000試合、2000本安打いけますか?」「悔しかった。でも、おかげでこれが目標になった」
— プロ4年目の秋のキャンプで、チームの先輩の山内一弘に聞き、『おまえにゃ無理だ』と言われた話。自伝『我が道 衣笠祥雄』から
21「これからの彼は1人歩きしていかなければならない。かわいそうです」「ぼくも記録がかかったときは『こんなものなければいい』と思ったことだってありますから」
— 1996年6月、自分の記録を抜いたカル・リプケンについて
不振と練習についての名言
苦しい時に読みたいのが、不振の頃の衣笠祥雄の名言です。打率が2割を切った1979年前半も、記録のために出ていると責められた1986年ごろも、信じたのは練習でした。
22「つらかったけど、練習するしかないと思っていたよ」「だって、明日野球がうまくなるかもしれないでしょ」
— 1986年ごろから「記録のために出ている」と責められた時の気持ちを、作家の山田隆道に聞かれて
23「明日の可能性だけは信じることができました。練習しているときだけは自分を信じられるんです」
— 1979年の不振からどう立ち直ったかを、後の取材で聞かれて
24「結局、追い詰められたら最後に助けてくれるのは練習しかない。試合になるとプレッシャーもかかって自分を否定されますが、練習のときは自分を肯定してくれる。だから、練習は大事にしないといけないんです」
— 同じ取材で、1979年の不振を振り返って
25「(夢の中で)懸命にバットを振るんだけど、全部空振りなんだ。あの時は全然、眠れなかった。ホッとできるのは素振りしたりボールを打っている時だけだったな」
— 1979年前半の不振を、スポーツライターの二宮清純に振り返って
26「ベンチに座っていたら、いろいろなことに気付くんだよね。たとえばヒット。試合に出続けていた時はカキーンと快音を発するのがヒットだとばかり思っていた。ところが実際にはグチャッとかボテッというヒットの方が多いんだ。その時初めて、オレは自分の高慢さに気付くわけよ。」
— 同じ取材で、スタメンを外れて気づいたことを
27「どんなことでも、考え方次第でプラスにもマイナスにもなる。幸せになりたいなら、幸せになる見方をすればいいわけです」
— 広島ガスのページのインタビューで、1979年前半のスランプを振り返って
28「なぁに、単に下手くそなだけですよ」「今のプロ野球にスランプという言葉の当てはまる選手が何人いますか。まぁ数えるほどですよ」
— 引退後、不振の若手について「スランプ気味ですかね」とスポーツライターの二宮清純に聞かれて
江夏豊と江夏の21球についての名言
衣笠祥雄と江夏豊の話で有名なのが、1979年11月4日の日本シリーズ第7戦です。4対3で迎えた9回裏無死満塁で、ブルペンに次の投手が走ったのを見て江夏は苛立ちました。そこでマウンドへ行き声をかけたのが衣笠祥雄で、この場面は山際淳司のノンフィクション『江夏の21球』で知られています。何と言ったのかは語る人によって違います。本人は対談で自分の言葉を明かしたうえで、「本当にはそこまで言ってないですよ」と話しています。
29「お前な、一年は誰でも勝てる。もう一年勝つことだよ」
— 1979年11月4日、日本シリーズ第7戦の後の大阪球場で、「来年何すりゃええんだろう」と言う江夏豊に。2017年の対談で本人が語った
30「それじゃあ、打たれて負けりゃええじゃないか」
— 1979年11月4日、9回裏無死満塁のマウンドで、ブルペンの動きに怒る江夏豊にかけた言葉。2017年の対談で本人が語った
31「本当にはそこまで言ってないですよ。だいたいの話。僕はどうしても勝ちたかったら、そのためにどうにかしたかった。1975年に負けていますからね。江夏を冷静にしないと勝てないと思った。いい状態にしなくていい、ふつうにするために声をかけた。」
— 同じ2017年の対談で、声をかけた理由を話した言葉。1975年は日本シリーズで阪急に1勝もできずに敗れた年
32「豊、気持ちはわかる。でもな、オマエが投げなきゃ始まらない。ここはピッチングに集中しろ。オマエに何かあったら、オレも一緒にユニフォームを脱ぐから」
— 1979年11月4日のマウンドで。江夏豊が著書『強打者』に書いた言葉
33「やめるんだったら、一緒にやめてやる」「変に内野ゴロを打たすなよ。そいつがエラーしたら一生傷つくからな」「ユタカを普通の精神状態に戻したかった」
— 1979年11月4日のマウンドの言葉と、その理由。スポーツライターの二宮清純の取材ノートから
34「負ける経験は75年にしているから、今度は日本一になる経験をしたかった。僕は、それだけだったよ。」
— 2017年の対談で、あの場面の思いを話した言葉。75年は日本シリーズで阪急に敗れた年
35「江夏とマウンドで二人で話すことというのは、他の人には死ぬまでしゃべらんぞという感じでね。」
— 2017年の対談で、マウンドの言葉を長く語らなかった理由を
36「僕は江夏が自分で外したに違いないと思っている。」
— 2017年の対談で、9回裏に江夏豊が相手のスクイズを外した19球目について
37「『こいつと長いことやるの、嫌だなあ』って。」
— 2017年の対談で、阪神に入った江夏豊を初めて見た時のことを
世界記録と国民栄誉賞、引退の時の名言
衣笠祥雄が国民栄誉賞の表彰を受けたのは、1987年6月に世界記録を作った9日後でした。世界記録の日に口にしたのは数字の話ではなく、神様への感謝です。表彰式では、海水浴に行った海辺で1人沈み込んだ不振の頃のことまで明かしています。
38「私に野球を与えてくださった神様に感謝します」
— 1987年6月13日、広島市民球場で2131試合連続出場の世界記録を作った日のあいさつ
39「長いスランプを脱するのが一番の苦労でした。心技体の中でやはり心の問題が一番大切と痛感してきた」
— 1987年6月、国民栄誉賞の表彰式で
40「打てない時に家族みんなで海水浴に行ったけど、海辺で自分1人が沈み込んでいて、これではいかんと目がさめた事もある」
— 同じ国民栄誉賞の表彰式で
41「皆さんのご声援を受け、この球場で五度の優勝、三度の日本一…カープの本当に素晴らしい伝統を作るなかで一人の選手として参加できたこと、最高の、生涯最高の思い出としたいと思っています」
— 1987年の引退の時のグラウンドあいさつ
42「引退の時も、非常に辛かったのですが、自分で出処進退を決められることは幸せかなと思いました」
— 広島ガスのページのインタビューで
子どもと若い人に語った名言
衣笠祥雄が繰り返し話したのは、スポーツは子どものためにあるという考えです。亡くなる前の最後のインタビューでも、選手は子どもの手本でなければならないと語っています。
43「スポーツの選手は、いつも子供の手本でなきゃダメなんです。将来、大きくなって、あんな人のようになりたい、だから頑張るんだと。そう思ってもらえるようなプレーヤーでなきゃいけないんですよ。子供達が見て、正しいと思ってくれる道しか、スポーツの選手は歩いちゃダメなんです。」
— 2018年12月4日放送の NHK BS「アナザーストーリーズ」のラストインタビューで、スポーツは誰に向けてしているのかを問い返して
44「僕を変えてくれた野球を、次は子どもたちに伝えたい。頑張れば、できるんだよって」
— 2008年2月、京都の福祉事業団のホームページに載った言葉
45「私が子どものころあこがれたように、今の選手は子どもたちのあこがれの人になってほしいのです。そうなることで、また歴史がつながっていく。プロ野球が衰退してしまったら、先人にも次の人たちにも申し訳が立ちません。」
— 2014年、プロ野球80年の特集の取材の終わりに
46「可能性は、諦めない限り誰にでもあるはずです。大切なのは、それに出会ったとき、見過ごさずに最初の一歩を踏み出せるか、否か。」「だから若い人は、もっともっと自分の好きなことを大切にしてほしい。自分の人生は自分で作るんですから」
— 広島ガスのページのインタビューで、若い人へ
47「夢を持とうよ」
— 2017年2月27日、山本浩二とのトークショーで、同じ世代の人へ
48「失敗はする。その中から何をもらうか。それを自分の中に残しておくことが大事」
— 2015年のラジオのインタビューで、契約金を使い果たしたプロ2年間を振り返って
49「お前、ボールが怖いんなら野球なんてやめてしまえ!」
— 試合後に部屋に呼んだ高橋慶彦に。頭に死球を受けて腰が引けていた頃のことを、高橋が2023年に語った
思わず笑ってしまう面白い名言
鉄人の話だけでは見えない衣笠祥雄の軽さは、こんな言葉に出ています。車に夢中だった若い頃の話や、野菜を食べない理由には、つい笑ってしまいます。
50「バットを磨いているより、クルマを磨いている時間の方が長かった」
— 車に夢中だった若い頃を、スポーツライターの二宮清純に振り返って
51「セカンドベースへ放ると、田中さんのボールはピュッと行くのに、僕のボールはムニャムニャ(笑)。これはエライところに入ってしまったと後悔しましたよ」
— 同じ取材で、1年目の日南キャンプの時に先輩捕手の田中尊と比べられた話を
52「そしたら、根本さんにこう聞かれたんです。『お前、プロ野球の選手だな?』って。『はい』って答えたら、『じゃあ、売り物はなんだ?』って言われて、その時『なんだろう……』って考え込んでしまった。」
— プロ3年目のキャンプの前、当時カープの指導者だった根本陸夫とのやり取りを、後の取材で振り返って
53「大丈夫。野菜なら、牛(食べている牛肉のこと)がいっぱい食べてくれている」
— 焼き肉やステーキばかり食べていた頃、「サラダも食べた方が」と心配する後輩に
54「スポーツ新聞はね、野球に追っかけられている気がするんだよね…で、いやなのよ。」
— 1986年6月6日放送の NHK 特集「17年間休まなかった男」で、家で一般紙を読む理由を
55「あれは緒方(孝市監督)が悪いよ。優勝が決まったら監督は早くマウンドに行かなきゃ。」
— 2016年、カープの25年ぶりの優勝の場面について、スポーツライターの二宮清純に
カープと山本浩二についての名言
衣笠祥雄と山本浩二は、カープの黄金期を一緒に支えた2人です。性格も考え方も違う2人が、チームへの貢献だけは同じだったという話が、本人の言葉から伝わってきます。
56「(浩二とは)絶対、競っちゃいけない。汽車のレールと一緒で交わることがないのよ、性格も違うし。」
— 2018年の江夏豊との対談集『昭和プロ野球の裏側』で、山本浩二との間柄を
57「現役時代、私にとって浩二は本当に良いチームメートでした。ただ、考え方も違うし、野球に対する方向性も違います。一つだけ共通していたのは『どうすればチームに貢献できるのか?』ということ。」
— 2013年、広島の専門誌の取材でカープのリーダーについて話す中で
58「カープと言えば衣笠といわれた頃もあったけど、『ミスター赤ヘル』が出てきた。でも浩二がいなければ優勝できなかった。」
— 2017年2月27日、山本浩二とのトークショーで。ミスター赤ヘルは山本浩二のこと
59「今でこそ、広島のカラーといえば『赤』ですが、昔は恥ずかしかったですよ。『オマエのチームは、とうとうちんどん屋になったのか』なんて言われたりしてねぇ。帽子は真っ赤だけど、こっちは真っ青でしたよ。ハッハッハッ」
— 1975年の赤ヘルの誕生を、スポーツライターの二宮清純に振り返って
60「笑顔の集団には人が集まる。集まればそれだけ多くの知恵と知識が使える。全員が笑顔になれるのが優勝」
— 2016年11月6日、広島市での講演「鉄人の目―カープ復活を語る」で
よくある質問(Q&A)
商品やサービスを紹介いたします記事の内容は、必ずしもそれらの効能・効果を保証するものではございません。
商品やサービスのご購入・ご利用に関して、当メディア運営者は一切の責任を負いません。