ジャイアント馬場の名言56選!還暦の言葉やインタビュー、エピソードを解説
プロレスラーのジャイアント馬場は、還暦を過ぎてもリングに立ち続けました。「なんだ、まだやれるじゃないか」など、ジャイアント馬場の名言を言った時期と場面、インタビューやエピソードとともに紹介。広く伝わる名言「5000の次は5001」は本人の言葉なのかも答えます。
Writer
公式ライター Activel編集部
巨人の投手から転じて全日本プロレスを作ったプロレスラーのジャイアント馬場さんは、60歳の誕生日の試合を終えたリングの上で「なんだ、まだやれるじゃないか」と話しました。ジャイアント馬場の名言には、体の衰えと向き合いながら戦い続けた人の強さと、思わず笑ってしまう柔らかさがあります。
「ダメになって やめるのは怖い」と語った人が、還暦を過ぎてもリングに立ち続けました。 三沢光晴さんが手記に書き残した「人を裏切るな。ダマすな」のように、周りの人が語り継いだ言葉にも、馬場さんの人柄が出ています。
「5000の次は5001」のように、元の記録が見つからない言葉もあります。記録の残る言葉を時期と場面でたどると、馬場さんがなぜ長くリングに立てたのかが見えてきます。
ジャイアント馬場のプロフィール
ジャイアント馬場さんは、巨人の投手からプロレスラーになり、全日本プロレスを作って、亡くなる直前までリングに立ち続けた人です。
基本プロフィール
身長は、プロレスラーとしての公称が209cm、巨人時代の記録が200cmです。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 本名 | 馬場正平 |
| 生年月日 | 1938年1月23日 |
| 没年月日 | 1999年1月31日(61歳) |
| 出身 | 新潟県三条市 |
| 身長 | 公称209cm |
| 巨人時代の身長 | 200cm(NPBの記録) |
| 足の大きさ | 呼び名は16文、実際は34cm |
| 得意技 | 16文キック |
| 団体 | 全日本プロレス |
| 国内通算 | 5758試合 |
新潟の青果店から巨人の投手へ
馬場さんは、新潟県三条市の青果店に生まれました。10歳ごろから家業を手伝い、野菜を積んだリヤカーを引いて朝市へ通い、それから学校へ行っていました。
三条実業高校では、足に合う大きなスパイクがなく、すぐには野球部に入れませんでした。高校2年でやめて巨人に入団し、背番号59の投手になります。NPBの記録に残る一軍の成績は、1957年の3試合だけで、0勝1敗、防御率1.29です。
プロレス入門から最後の試合までの歩み

1959年のオフに巨人を解雇され、翌年の大洋のキャンプでは風呂場で転んで左腕を痛め、野球を断念しました。1960年4月に力道山の日本プロレスへ入門し、9月30日にデビューします。アントニオ猪木さんも同じ日のデビューでした。
その後の節目を公式年表でたどると、次のようになります。
- 1961年: アメリカへ武者修行に出発
- 1963年: 帰国してリングネームをジャイアント馬場に
- 1967年: 猪木さんと組みインタータッグ王座を獲得
- 1972年: 全日本プロレスの設立を発表、10月21日に初興行
- 1974年: ジャック・ブリスコを破り、日本人で初めてNWA世界ヘビー級王者に
- 1980年: 国内3000試合連続出場を達成
- 1993年: 国内通算5000試合出場を達成
- 1998年: 1月23日に還暦記念試合、12月5日に最後の試合
1999年1月31日、肝不全のため61歳で亡くなりました。国内の連続出場は1984年に首を痛めて3711試合で止まりましたが、その後も試合を重ね、国内通算は5758試合に届きました。
座右の銘
座右の銘に一番近いのは、ジャイアント馬場記念館が絵馬にしている「人生は、チャレンジだ。」です。ジャンボ鶴田さんも、馬場さんがいつも言ってくれた言葉として、引退セレモニーで語っています。ただ、座右の銘と書かれた公式の記録や当時の取材は見つかりませんでした。
ジャイアント馬場の名言56選
ジャイアント馬場の名言には、還暦の日の話から、ファンへの感謝、猪木さんへの皮肉、弟子へのほめ言葉まであります。本人がインタビューや会見で話した言葉のほか、近くにいた人がエピソードの中で語る言葉もあります。
還暦を過ぎてもリングに立ち続けた言葉
50歳で「やめようという気はない」と言い、還暦の日には「ひと試合でも多く」と話しました。やめるのが怖いと語った人が、どうやって長く続けたのかが分かります。
01「ダメになって やめるのは怖い」
— 2006年放送のNHKの番組『あの人に会いたい』で紹介された言葉(NHKアーカイブス)
02「子供の時に60歳といったらね、ずいぶん年寄りだなあと思いましたね。自分がなってみたらね、なんだ、まだやれるじゃないかと」
— 1998年1月23日、還暦記念試合の後、リングの上で(ジャイアント馬場記念館の公式 X)
03「やられるんじゃないかと、昨日から緊張してました。少しは加減してくれればいいんだけど(笑)。よくまぁ、今日までがんばったと思いますね、自分でも」
— 1998年1月23日、還暦記念試合の後、徳光和夫さんのインタビューで
04「今日は大変ありがとうございました。ひと試合でも多く、これからもがんばっていきたいと思います。これからもよろしくお願いします」
— 1998年1月23日、還暦記念試合の日、ファンへのあいさつで
05「川田や小橋にKOされないようにしないとな」
— 1998年1月23日、還暦記念試合の前に
06「プロレスから離れるのは、おれが死ぬときだろうね」
— 1998年3月、朝日新聞記者のインタビューで
07「今年は(創立)25周年だからできたけど、来年は理由がないしなあ。でも再来年(2000年)は(デビュー)40周年だろ。その時、ドームを取ったら俺が辞めると思っていいよ。40年以上はできんだろ」
— 1998年、全日本プロレスの東京ドーム大会の頃、記者との雑談で
08「ベルトに挑戦するようなことはとっくに引退した」
— 晩年、前座の試合に出続けていた頃に
09「今、ボク、50歳だけど、50歳になってもスポーツができますよ。やればできるんですよということをわかってもらいたいんだなぁ。野球にしても相撲にしても35、36歳が限界と言われてきて、ボクも38歳で引退しようかなと30歳くらいの時に思ってました。」
— 1988年11月3日、ターザン山本さんとのトークショーで
10「でも、練習してコンディションを整えればやれるということがわかってね。つい7、8年前にも『もうやめろ!』なんてヤジが飛んできて、やめようかな…なんて思ったこともあった。この頃、みなさん、わりかた応援してくれるんでね、やめようという気はないんですよ」
— 1988年11月3日、同じトークショーで
11「これが最後の優勝かなという気持ちが強い」
— 1982年4月16日、チャンピオン・カーニバル優勝の後
12「ガニアは強かった。3000試合を振り返るとあのキニスキー、サンマルチノら好ライバルとの死闘、初めてNWA王座についたブリスコ戦などが脳裏をかすめた。しかし何といっても昭和45年の夏、D・F・ジュニアとフルタイムで戦った試合が強烈に思い出される」
— 1981年1月18日、前年に達成した3000試合連続出場の記念試合の後
プロレスとファン、生き方についての名言
所属選手が集団で抜けた時には「自分たちにはファンがスポンサーだ」と話し、震災の後にはファイトマネーを被災地へ送りました。麻雀の話の中にも、生き方についての言葉が出てきます。
13「人生は、チャレンジだ。」
— ジャイアント馬場記念館が名言として絵馬にしている言葉。言った日と場面は分かっていません(公式 X)
14「相手があることだから、こうすれば勝てるという絶対的なものはないよ。オレの生き方やプロレスのやり方と同じで臨機応変。時にはジッと我慢。時には思い切った手を打つ。目の前にいる人と頭の中で格闘しているんだから麻雀は面白いんだ。」
— 麻雀の勝ち方について話した言葉(時期は分かっていません)
15「だからオレは、初めての相手にはほとんど勝率ゼロだ。しかし、半荘やればその人の性格が読めて、もう滅多なことじゃ負けないという自信はあるよ。ツキのない時? 黙って降りるに限る。振り込まなければ必ずチャンスはあると信じて、ジッと我慢の子だよ。この辛抱も大切だ」
— 同じ麻雀の話の続き
16「シューティングを超えたものがプロレス」
— 著作権を管理する会社が、馬場さん自身の言葉として紹介(公式 note)
17「明るく楽しく激しいプロレス」
— 1989年に掲げた全日本プロレスのモットー
18「みんなが格闘技に走るので、私、プロレスを独占させてもらいます。」
— 1989年、全日本プロレスのポスターの文
19「泥の中に手を突っ込んでいたようなものだったな。この泥は早く払い落とす必要がある。長州がきた時だって、視聴率はそんなに上がらなかったもんな。地方に行くとあらためて気づくことがある。お客は体のでかい外国人レスラーに魅力を感じている。全日本プロレスのセールスポイントは昔から開放的な楽しさにあった。日本人抗争はギスギスしていかん…」
— 1987年10月14日、世界最強タッグの記者会見で
20「自分たちにはファンがスポンサーだ」
— 所属選手が集団で抜けた後、残った選手に
21「全日プロからではない。プロレスを愛してくれるお客さんからのものです」
— 1995年1月19日、大阪府立体育会館の試合前、報道陣に
22「2か月半ぶりに日本のマットに立って、皆さんから拍手を受けた時、胸がジーンと熱くなった。ファンとはありがたいものです。そのファンのために頑張ったのですが、こんな結果になって残念だ。無念を晴らすためにも、明日のサンマルチノ戦は何としても勝ちたい」
— 1972年10月21日、全日本プロレスの最初の興行の後
23「まったく他人のことなんか構わず、自分だけがよくなりゃいいという考えを持った…というよりも“持たせた”人間を許すことはできない」
— 1990年6月20日、週刊プロレスのインタビューで、新しい団体 SWS による選手の引き抜きについて
馬場さんが「長州がきた時だって」と話した長州力さん自身の言葉は、長州力の名言で読めます。
思わず笑ってしまう面白い名言・迷言
あの大きな体からぽつりと出る一言には、思わず笑ってしまいます。決起軍の解散の会見では「あまりにもだらしないので」と言い、取材ではお尻のできものを「栄養が行き渡り過ぎるのかな?」と笑いました。
24「全然、決起していない。あまりにもだらしないので、解散させることにしました。1年経っても何も進歩しなかったっていうのは珍しいよ」
— 1989年6月7日、決起軍の解散を発表した会見で
25「藤原? 聞くだけ野暮だよ」
— 1996年11月28日、札幌で藤原喜明さんと初めて戦った後に
26「まさか虎のマスクかぶって結婚式をやるわけにもいかんしなぁ」
— 1988年4月26日、2代目タイガーマスク(三沢光晴さん)の婚約の会見で
27「栄養が行き渡り過ぎるのかな? ハッハハ」
— 1974年1月、NWA 王座への挑戦の前、お尻のできものについて
28「目立つのかな。外に出ると酔っぱらいがからんでくる。だから繁華街のことは何も知らない」
— 巡業先で、試合の後にホテルに引きこもることについて
29「僕にも弾けた」
— ヤマハのキーボード「ポータサウンドPC-100」の広告の言葉
アントニオ猪木についての名言
馬場さんと猪木さんは同じ日にデビューし、一騎打ちは16戦して馬場さんの16勝でした。2人がBI砲と呼ばれるコンビを組んだ頃から、別々の団体を率いた後までの言葉です。
30「猪木とのコンビには自信があった。それが3本目に結集された」
— 1967年10月31日、猪木さんと組んで初めてインタータッグ王座を取った後
31「俺のインタータイトルは俺のものであって、俺のものではない。コミッショナーが挑戦を認め、日本プロレスのフロントオフィスがやれと認めるなら受けて立つ。筋道を通してくれば、猪木と戦うのもやぶさかではない」
— 1971年5月、猪木さんが挑戦を表明したことについて
32「俺と猪木が組んだらそうそう負けるわけがないじゃないか。最高のパートナーだよ」
— 1971年7月1日、大阪でインタータッグ王座を守った後
33「宮本武蔵は巌流島で闘った後、大人になったんだよな…」
— 1987年10月14日、記者会見で、猪木さんとマサ斎藤さんの巌流島決戦について
猪木さんが残した言葉は、アントニオ猪木の名言で読めます。
鶴田、三沢、川田ら弟子と対戦相手についての名言
弟子をほめる時の言葉は短く、対戦相手に怒る時の言葉はまっすぐです。マスコミへの注意にも、馬場さんの考え方が出ています。
34「俺の出る幕はなかった。技は申し分ない。あとは試合の駆け引きさえ覚えてくれればいい」
— 1973年10月9日、蔵前国技館でジャンボ鶴田さんと組んだザ・ファンクス戦の後
35「初代以上のアイドルに育て上げたい」
— 1984年7月、2代目タイガーマスクの登場について
36「だから駄目だって言ってんだろ!」
— 1988年4月26日、2代目タイガーマスク(三沢光晴さん)の婚約の会見で、新聞社のカメラマンに
37「普段の努力のたまものですよ。いつも一人で黙々と練習をやっとるしな」
— 1994年10月22日、川田利明さんが三冠王座を初めて取った後
38「輪島は稽古しなくなった。稽古をさせなかった方が悪いんだが…」
— 1987年11月7日、天龍源一郎さんと輪島大士さんの試合のテレビ解説で
39「他人の家に土足で入ってくるようなマネをしてくれた。絶対に許せない。一騎打ちで戦う」
— 1981年12月13日、蔵前国技館でスタン・ハンセンさんの乱入を受けた後
巨人の解雇からアメリカ修行、ドリー戦までの名言
野球をあきらめ、アメリカで稼ぎ、世界の強い相手と戦った頃の言葉です。若い頃の苦しさも、本人の言葉に残っています。
40「入団の時は学校を挙げて祝ってもらった。クビになりました、と帰るわけにはいかなかった」
— 後年、1959年の巨人の解雇を振り返って
41「米国では502試合やった。負けたのは7回だったと記憶している。」
— 1963年3月、アメリカ修行から帰国した会見で
42「あの時は稼いだ。NYでは3800ドルだった。当時のチャレンジャーとしては、俺の知っている限り最高のギャランティーですよ。ロスで2試合タイトル戦をやって1試合5000ドルだった」
— 後年、1964年の世界王座への挑戦を振り返って
43「生涯最高の試合」
— 1967年8月14日、大阪球場でのジン・キニスキー戦を振り返って
44「死ぬと思った」
— 1970年7月30日、大阪でドリー・ファンク・ジュニアさんと戦った後
45「自分から場外に逃げて引き分けを狙った」
— 後年、同じドリー・ファンク・ジュニアさんとの試合を振り返って
周りの人が語った馬場さんの言葉とエピソード
震災の後に水を運んだ話のように、馬場さんのエピソードは近くにいた人の言葉で残っています。どれも本人の発言の記録ではなく、近くにいた人が語った話です。
46「馬場さんは、プロレスで最も大切なことは『受け身』だ、とおっしゃっていました」
— 全日本プロレスの中継の実況を担当した若林健治さんが2023年の取材で
47「受け身を大切にしていた馬場さんは、当時、あれだけ人気があったUWFについて『あれは、人に見せるものじゃない』とおっしゃっていました。『ああいうものは、自分を守るために身につけるもの。俺だってできるんだぞ』と」
— 若林健治さんが2023年の取材で
48「人を裏切るな。ダマすな」
— 三沢光晴さんが、馬場さんのお別れの会の日の手記で
49「お前は他のヤツと違うから…」
— 三沢光晴さんが同じ手記に書いた、同期より少し多かった初任給について馬場さんから説明された言葉
50「昔、僕が馬場さんから良く言われていたのが、怪我をするのは三流、怪我をさせるのは二流、っていう事なんですね。」
— 秋山準さんが2021年のインタビューで
51「馬場さんは試合内容のことは一切言わず、『やったことがすごいことなんだよ』って評価していた」
— 渕正信さんが2022年の取材で、1976年の猪木さんとアリの試合について
52「オマエはいいよなぁ、やりたいことができて」
— アントニオ猪木さんが週刊プロレスのインタビューで、馬場さんとの最後の立ち話として
53「自分が行くと目立って皆さんに迷惑がかかるから」
— 和田京平さんが2025年の取材で、阪神・淡路大震災の避難所の話として
54「これから日本のプロレスは世界一になるから、お前のレフェリングも世界一なんだよ」
— 全日本プロレスのレフェリーの和田京平さんが2025年の取材で
55「オレもそうだった。〝お母さん助けて〟って思った」
— 渕正信さんが語った話。1970年の試合について、ドリーさんが心臓発作になるかと思ったと話すと、馬場さんはこう返しました
56「人生はチャレンジだ! チャンスは掴め!」
— ジャンボ鶴田さんが1999年3月6日の引退セレモニーで
「5000の次は5001」など、元の記録が見つからない言葉
広く伝わるジャイアント馬場の名言の中には、ネットで読める範囲で元の記録が見つからない言葉があります。代表は「5000の次は5001」です。
5000試合を達成したのは1993年4月20日の福島で、これは公式の記録にあります。ただ、この言葉が出た取材や映像の記録は見つかりませんでした。伝わる文も「5000の次は5001だろう」「次は5,001試合です」と、ページごとに違います。
「基本である1、2、3をきちんと練習しないで、いきなり4とか5をやるな」「成り行きと言うと無責任なイメージを持つけどこれほど強いものはない」も、元が見つかりません。給料の話の「40年会社経営やっていて社員の給料遅らした事は一度もないよ」は、「40年」が、1972年に作った全日本プロレスの年数と合いません。
2020年の週刊誌の回顧記事は、馬場さんの名言について、映像が残っているもののほかは、周囲の人が作った言葉である可能性が高いとしています。これらの言葉が本の中にある可能性は残るので、本人の言葉ではないとまでは言い切れません。
よくある質問(Q&A)
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