大松博文の名言57選!東洋の魔女を育てた鬼の大松の「おれについてこい」
東京五輪で女子バレーを金メダルに導いた監督、大松博文の名言です。戦地で得た「やればできる」、誤解を自分で正した「おれについてこい」、晩年に「なぐったり、けったり」は論外と書いた言葉まで、大松博文の名言は厳しさの中身を教えてくれます。
Writer
公式ライター Activel編集部
大松博文は、1964年の東京五輪で女子バレーボールの日本代表を金メダルに導いた監督です。大松博文の名言には、戦地で見つけた「やればできる」も、国会で語った「みんなににこやかにつき合っておけばよかった」もあります。鬼の大松と呼ばれた監督の名言をたどると、苦しい時に自分を動かす言葉が見つかります。
大松博文のプロフィール
大松博文は、1921年に香川県で生まれたバレーボールの指導者です。日紡貝塚の監督として東洋の魔女と呼ばれた女子チームを育て、厳しい練習から鬼の大松の名で知られました。大松監督は東京五輪の後に参議院議員も務めています。
基本プロフィール
香川県に生まれ、戦地から戻って会社員として働きながら女子チームを世界一にし、後に参議院議員にもなりました。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 大松 博文(だいまつ ひろふみ。貝塚市などの表記は「ひろぶみ」) |
| 呼び名 | 鬼の大松 |
| 生年月日 | 1921年2月12日 |
| 亡くなった日 | 1978年11月24日(57歳) |
| 出身 | 香川県宇多津町 |
| 学歴 | 関西学院高等商業部 |
| 監督 | 日紡貝塚(のちのニチボー貝塚) |
| 世界選手権 | 優勝(1962年) |
| 五輪 | 金メダル(1964年東京) |
| 主な著書 | 『おれについてこい!』『なせば成る!』 |
| 議員 | 参議院議員(1968〜1974年) |
| 殿堂 | バレーボール殿堂(2000年) |
生い立ちと戦争の体験
大松博文は、小学校の校長の家に生まれました。坂出商の3年でバレーボールを始め、関西学院の高等商業部では全日本総合という全国大会で2度優勝しています。1941年に大日本紡績へ入社しますが、その年の12月に召集されました。
配属は、弾薬や食料を運ぶ輜重兵の部隊です。小隊長として年上の部下を率い、1944年にはビルマでインパール作戦に従軍しました。コヒマから約90日に及んだ退却の中で、のちの「やればできる」の信念が生まれます。敗戦後は捕虜となり、1947年6月に帰国しています。
監督就任から金メダル、亡くなるまでの歩み
大松は1953年11月、勤めていた日紡(大日本紡績)で女子チームの監督に決まりました。翌年3月に貝塚工場でチームが発足します。これが、のちのニチボー貝塚です。1958年には国内の主なタイトルを独占します。1961年の欧州遠征で22連勝すると、選手たちの話では、ソ連の新聞がこのチームを東洋の魔女と書きました。
1962年のモスクワの世界選手権では、ソ連を3対1で破って優勝しました。大松監督はここで引退を表明しますが、2か月で5千通を超える手紙が届き、選手たちと東京五輪まで続ける道を選びました。
1964年10月23日、東京の駒沢屋内球技場でソ連を3対0で破り、金メダルを取ります。NHKのテレビ中継の平均視聴率は66.8%(ビデオリサーチ調べ・関東地区)でした。その後は監督を退いて1965年に会社を離れ、同じ年に周恩来総理の招きで中国の女子チームを1か月指導しました。
1968年に参議院議員になり、教育を扱う文教委員会の委員長なども務めました。1974年に落選した後はママさんバレーの指導で全国を回り、イトーヨーカドーのバレーボール部の顧問にもなります。1978年11月23日、岡山県井原市で指導した夜に胸の痛みを訴え、翌24日に心筋梗塞のため57歳で亡くなりました。
鬼の大松と呼ばれた厳しい指導
鬼の大松のエピソードで欠かせないのが、東洋の魔女の練習の長さです。練習は社業を終えた夕方から始まりました。主将の河西昌枝は「だいたい夜中の3時まで。朝の5時になることもしょっちゅうでした」と語っています。大松監督はコーチを置かず、選手たちが代わるがわる受ける球を1人で打ち続けました。あまりの厳しさに、社内からは「女性の敵」という批判も出ています。
大松監督が手をあげなかったという点で、選手たちの証言は一致しています。大松自身も戦争中、初年兵の教育で毎日殴られ蹴られた人で、1974年には、憎しみで指導するのは絶対に間違いだと記しています。ただ、足が動かなくなった選手にバケツの水をかけた話、入社2日目の選手に「病院に行って盲腸をとってこい!!」と命じた話、骨折やひびのまま練習を続けた話も、選手たち自身が語りました。生理の時の練習については、資料が食い違います。1963年の共著は休むことを許さないと読める一方、後に入った選手は「生理だから休むな、と言われたこともありません」と語っています。
この指導を今どう見るかは、人によって分かれます。今なら許されないという声があり、研究者の間でも、しごきを美化してきたという批判と、ただの根性論ではなかったという見直しの両方が出ています。Activel編集部は、この練習を今の部活や職場でそのまま手本にはできないと考えます。大松監督自身も後に、ニチボーのまねごとで短い期間に痛めつける根性づくりを「とんでもない指導」と書きました。大松監督の言葉は、人に押しつけるためではなく、自分を動かすために読むと力になります。
座右の銘
大松博文の座右の銘は「為せば成る」です。大松は1963年の著書に「わたしは、“なせばなる”ということを日常のモットーとしています」と書き、米沢藩主の上杉鷹山の歌だと説明しました。故郷の宇多津町の中学校と、大松が亡くなった井原市の寺には、自筆の「為せば成る」の碑が残っています。
大松博文の名言57選

大松博文の名言は、激しい言葉ばかりではありません。戦地で見つけた信念や、1日1ミリずつ伸ばす練習の考え方のほか、「おれについてこい」の誤解を自分で正した言葉、金メダルの後の「楽しかった」、負けた時は選手にあやまるべきだという言葉まであります。
著書の言葉は、鈴木秀人さんの論文や岡部祐介さんの論文に引かれた文をもとにしています。代表作の『おれについてこい!』は、大松の話を編集者が録音して本にしたものです。
戦地で見つけた「やればできる」の名言
大松の信念の出発点は、ビルマの戦地です。大松はその体験を、飾らずに語っています。
01「わたしは、やればできるのだ、という信念、大阪ことばでいう土性骨を、ビルマ戦線の死の彷徨の中で見いだしたように思います」
— 1963年の著書『おれについてこい!』で、インパール作戦の退却を振り返って
02「人はある時期突然に、まったく新しい自己を発見することがあるものです。苦しみもがき、ぎりぎりの瀬戸際に立ちつくしたとき、突如として訪れる光明であります」
— 1963年の著書『おれについてこい!』で
03「死は死を呼ぶといいますが、わたしは目のあたりにそれを、つぎからつぎへと見ました。」
— 1963年の著書『おれについてこい!』で、インパール作戦の退却を振り返って
04「人はなにごとも、自分の体験したことしかわかりません。」
— 1963年の著書『おれについてこい!』で
05「軍隊は悪い人間も作ったが、強い人間も作ったといまでも私は思っている」
— 1963年に選手たちと出した共著『“東洋の魔女”の五年間』で
06「われわれを武装解除した英国人兵の程度が悪く、何かするとすぐ戦犯だと。勝てば官軍だ、何事も、やるからには勝たなければならない。それを思い知った」
— 東京五輪の後のインタビューで、捕虜だった頃を振り返って
07「人を自分についてこさせる術を、わたしは戦地の実践によって会得した」
— 1963年の著書『おれについてこい!』で、年上の部下ばかりの小隊長だった頃を振り返って
「おれについてこい」の名言
「おれについてこい」は、大松博文の代名詞です。著書の中では、選手より自分が苦しんでいるから言える言葉として出てきます。大松は著書の11年後に、世間の受け取り方を自分で正しました。
08「おれですら、これだけやれるではないか。おまえたちの若さでやれなくてどうする。おれについてこい」
— 1963年の著書『おれについてこい!』で、選手に言えることとして
09「十人の選手が代わるがわる百ずつ打てば、わたしは千回打つ」
— 1963年の著書『おれについてこい!』で
10「人を死地におもむかせるには、みずからもまたそこにおもむくだけの用意と覚悟がなければなりません」
— 1963年の著書『おれについてこい!』で
11「専制的で暴君的な意味合いの『ただ黙っておれについてこい』とは甚だ意を異にするものであることを理解してもらわなければならない。」
— 1974年の寄稿「コーチ概論」で
12「真の『おれについてこい』とは、選手の性格・精神的なもの・意志力・体格・身体的特徴・体力等充分把握した上で且つ選手各人の意見をきき、その総合結集したものから1本の線を引き、その線に沿っての猛練習を段階を追い乍ら進めた訳で決して独善的ワンマン的方法ではなかったのである。」
— 1974年の寄稿「コーチ概論」で
13「人は、自分から何もしない人にはついていかない」
— 後輩の吉田國昭さんが、大松が繰り返し言っていた言葉として2013年に伝えた
練習と回転レシーブの名言
世界に勝つために新しい技を考え、毎日少しずつ伸ばすのが、大松の練習でした。回転レシーブも、そうして生まれました。
14「できんことをするんが練習や」
— 1961年初め、回転レシーブの考えを口にして、主将の河西昌枝に「そんなこと…」と返された時に
15「柔道は回って立つだけ」
— 回転レシーブは柔道の受け身を習ってからやるべきだと言われた時に
16「何でもいいから、ゴロゴロ転がって、素早く起きろ」
— 回転レシーブの練習で、選手たちに
17「ボールを拾う幅が一日一ミリ伸びれば、その積みかさねは、やがて一〇センチにも二〇センチにもなります」
— 1963年の著書『おれについてこい!』で
18「名人芸といわれるものも、一つのことのくり返しからできあがる」
— 1963年の著書『おれについてこい!』で
19「わたしのしかりかた・笑わせかたは、わたしという人間の個性から出るものであって、まねしたってだめなのだ。回転レシーブだけ見習っても、そんなものは、もっと別な、いい方法が出れば負ける。サーブも、これという一つの方法よりも、六人それぞれ個性的であるがゆえに効果的なのだ。つねに新しい道を捜さなければならない。経験からいうと、それは練習よりもはるかに苦しいものだ」
— 1964年の著書『なせば成る!』で
20「ある一つのものに対応して、次のものを打ち出していく、この創る喜びがあってこそ、はじめて選手も厳しい練習について来られるし、また、あきずにつづけられるのです。」
— 1975年の著書『バレーボールの心』で
21「人情としては『苦しいだろう休め』といいたい、然し休ませては耐久力、持久力、技術向上等それ以上の進歩を望むことは出来ない。」
— 1974年の寄稿「コーチ概論」で
根性と、自分に勝つ名言
根性は、大松の言葉によく出てくる語です。ただ、大松の言う根性は、誰かに耐えさせることより、自分に打ち勝つことに向いています。
22「根性はからだを鍛えることから生まれる」
— 1963年の著書『おれについてこい!』で
23「根性が必要だといわれる。根性がなくては物事をやり抜くことは出来ないといえる。この根性は確かに生れつきという面もあるが、それだけの根性ではなんにもならない。根性は養なわれるものであり、養なうものである。それは自分に打ち勝つことである。」
— 1974年の寄稿「コーチ概論」で
24「“根性が必要だ”“ニチボーのあの根性だ”それを作りあげるのは猛練習をおいてないのだと、このようなまねごとで短い期間に急激に痛めつける。この事が根性づくりだという。とんでもない指導である。」
— 1974年の寄稿「コーチ概論」で
25「眠い、苦しい、もういやだ、もうこれ以上はご免だ降参だとするのも自分なら、美味しいものを食べて1日中寝転んでいたいというのも自分である。この自分が恐ろしいのである。」
— 1974年の寄稿「コーチ概論」で
26「自分に勝てなければ、世界選手権に勝てるプレーヤーにはなれないぞ!」
— 1963年の共著『“東洋の魔女”の五年間』に書かれた、選手への言葉
27「問題は何度も繰り返しますが、やるかやらないかなのです。やらなければ、できないのは当り前のことです。しかし、やればできるのです。仕事を苦にしたり、練習を苦にしたりしないで、それをやり通すことが、大事なことです」
— 1975年の著書『バレーボールの心』で
28「人生航路は常に突風あり、暗礁ありで、予期しない出来事が発生するものです。ですから、それに堪え、打ち勝つ精神を持つことが必要なのです。この精神こそ根性というべきもので、人間だけがもち、最後の喜びをもたらすところの尊い無限の力なのです」
— 1971年の著書『誰のために生きるのか』で
29「特に指導者は若い人達に1日といえども自己を錬磨することを忘れたり、怠ったりするならばその1日は絶対にもどってこないのだということを教えるべきである。」
— 1974年の寄稿「コーチ概論」で
30「もの心がついてから死ぬまで修養の連続だ、ということを、わたしは選手たちに、いつのばあいでもいってきました。」
— 1966年の著書『わたしの信念』で
31「悔いのない青春のために、将来の豊かな実りのために若い日の苦労は進んでせよ!」
— 1974年の寄稿「コーチ概論」で
自分のために勝つ、チームの名言
大松の勝利へのこだわりは強く、1963年の著書では勝つことを第一に掲げました。同じ大松が、会社のためでなく自分のためにやれとも、スターになるなとも言っています。
32「わたしのいだく、この精神は、単にスポーツばかりではなく、人生の全般に通じるものと、わたしは思っています。生きるとは勝ち抜くことだからです」
— 1963年の著書『おれについてこい!』で
33「バレーにヒーローはいらない。精神力でしっかり支えられた6つの歯車がガッチリかみ合ってさえいればそれで十分である。」
— JOC の東京五輪の特集に載る言葉
34「アタッカーはレシーバーがトスを上げてくれるから打てる。バレーは一つのボールをみんなで追いかけている。だからお前らスターになるな。金メダルを持っていることはいうな」
— 選手の宮本恵美子から記者が聞いた、大松の教え
35「会社のためにやったのでなく自分自身のために挑んだのであり、どのように苦しくとも、自身の練習であり、技の向上であり、自分自身の栄誉のためにやった故あのような苦しいことに耐えられたと思う。もし練習に残業手当のようなものが出ていたとするなら、必死の練習は出来なかったに違いないと思う。」
— 1974年の寄稿「コーチ概論」で
36「考えるに、今の世の中で、どうしても、いただけないのがサラリーマン根性である、ときめつけたい。」
— 1974年の寄稿「コーチ概論」で
37「誰のためでもない、自分のために勝つんや」
— 選手の谷田絹子への取材で記者が書いた、大松の指導の言葉
金メダルまでの苦しさと喜びの名言
世界選手権に勝った後、大松は監督をやめるつもりでした。続けると決めた後は、選手をこれ以上追い込むことへの迷いも口にしています。
38「心の中で私は、もうこれ以上やらせてはいけない。もう酷だと、本当に悩んだ。というのがあの(昭和)37年から38年の初めの、私の本当の気持ちだった。」
— 1965年9月のNHKの番組で放送された講演で
39「なにがなんでもやれ、という、単純明快な要望の持つ非情さに、わたしの心はふるえました」
— 1964年の著書『なせば成る!』で、やめると表明した後に届いた手紙を振り返って
40「ゆっくり相談して来い。お前たちがやるのなら、ワシもやる」
— 1962年の年末、東京五輪まで続けるかを選手たちに任せた時に
41「あの一戦に勝つために、わたしは、女子選手たちの青春を犠牲にし、わたしの家庭を犠牲にしたのでした。長い苦しい歳月を、選手たちは耐えしのんでわたしについてきたのです」
— 1964年の著書『なせば成る!』で、1962年の世界選手権を振り返って
42「おまえたちは、なにも心配しないでいい。勝つことはわしが考える。わしのいうとおりにやれば勝てるのだ」
— 著書で、選手に言い聞かせていた言葉として
43「いらんもん見るな」
— 1964年10月23日の決勝の前、柔道の試合をテレビで見ていた選手たちに(選手の松村好子が伝えた)
44「苦しかった。つらかった。選手たちの金メダルを見た瞬間、とめどもなく涙が出てきた」
— JOC の東京五輪の特集によると、第18回五輪(東京五輪)の報告書に残した言葉
45「わたしは、いや、ニチボーバレーチームは楽しかった。あの長いあいだの練習の苦しみを、わたしたちは最上に楽しんだ」
— 1964年の著書『なせば成る!』で、金メダルの後に
参議院議員として国会で語った名言
議員になった大松は、国会の質問の中で監督時代の話もしています。厳しかった自分を振り返る言葉も、「死ねと言うのか」と反発した時の言葉も、記録に残っています。
46「私、いまそのことをいろいろ振り返ってみましても、ああ、こういうようにもっとみんなに協力しておけばよかった、みんなににこやかにつき合っておけばよかったということを思います。」
— 1971年3月11日、参議院の文教委員会で
47「当時、私たちは夜は朝の三時までやって、そして朝八時から仕事をして、これでやっていた、これ以上やれというのなら私たちに死ねと言うのかということを私反発した」
— 1969年3月20日、参議院の文教委員会で、施設をつくってやったのだから勝てと言われた時の反発を振り返って
48「私が歌えばこれはもう歌にもならぬが、美空ひばりが歌えば歌になる」
— 1970年4月23日、参議院の文教委員会の著作権法の質問で、歌手の権利を認めるべきだと話す例として
49「あるとき、君と私が話をしておりましたところ、君は、『大松君は世間でよく鬼の大松といわれているようだが、ぼくはどちらかといえば仏の中村だな』と申されたので、私はさっそく『それは全く逆だ』と反論したことを思い出します。」
— 1972年1月29日、参議院本会議で、亡くなった同僚の中村喜四郎議員を悼む演説で
指導者へ残した名言と、最後のやりとり
監督を退いた後の大松は、指導者に向けた言葉も書き残しています。捕虜の時に「何事も、やるからには勝たなければならない」と思い知った人が、ここでは負けの責任は指導者にあると書きました。
50「結果として試合に負けた事実は誰が悪いのでもない。すべて指導者の責任である。」
— 1974年の寄稿「コーチ概論」で
51「試合に負けた時は決っして叱ることはさけるべきだと考えている。むしろ敗退した原因になった点をあげ卒直に選手にあやまることの方がより効果的である。」
— 1974年の寄稿「コーチ概論」で
52「憎しみの感情で教育をし指導に当るのは絶対に間違いである。愛に基づいたやり方でなければ、反抗心を起させ、離反させるだけで、心から教えを受ける筈がない。」
— 1974年の寄稿「コーチ概論」で
53「練習でも、ただやたらに猛練習しろなどとはいいません。選手が納得し、指導者と選手との心の交流がなければ、意味はないのです。なぐったり、けったりして練習させるなどは論外です」
— 1975年の著書『バレーボールの心』で
54「選手と一緒になって汗を流し、辛い練習を繰り返しているうちに、教える側と選手、また選手同士の間に固い連帯感が生まれて来ます。教える立場と教わる立場の間に心のつながりが生じるのです」
— 1975年の著書『バレーボールの心』で
55「練習で泣き、試合で笑うべきだという。このことは、ただ辛い練習に耐えて試合に勝てという意味ではなく、試合に臨んで笑顔でプレー出来るように普段の練習を厳しくしておかなければならないという意に解釈したい。」
— 1974年の寄稿「コーチ概論」で
56「こうして全ての女性が、バレーボールを通して、身体を鍛え、健康を維持していくのを見ると、それだけでも大きな意義のあることだと思うのですが、ママさんバレーの良さは、それに加えて、夫婦の対話、親子の対話、人と人との触れ合いの糸口になれるということです」
— 1975年の著書『バレーボールの心』で
57「下手くそがいつまでやってんねん」
— ママさんバレーの全国大会の表彰式で、谷田絹子に。亡くなる数か月前の最後のやりとり
選手たちが語った大松監督
大松監督の下で練習した選手たちは、後になってどう語ったのでしょうか。しんどかったと言う人も、大好きだったと言う人もいます。
- 河西昌枝「厳しかったですよ。でも大松先生には厳しさと同時に優しさもありました。だから皆んな付いていったのです」(2004年のJOCの記事。続く文から河西の言葉と読めます)
- 河西昌枝「先生はオレについてこいと言ったけど、私たちも(ただ従うのではなく)自分で考えてついていったんです」
- 宮本恵美子「あんな人だったからついていけた。厳しかったけど、みんな先生が大好きだった」(2014年のインタビュー)
- 谷田絹子「人にできないことをやり遂げたから魔女なんだ」(2020年のインタビューで、仲間と一致した思いとして)
- 松村好子「肉体的なしんどさは休憩すれば戻るけど、精神的なしんどさは自分で解決できない。でも、大松先生が私たちを萎縮させることはなかったと思う」(2017年の取材)
- 磯辺サタ「練習は厳しいですが、手はあげられませんでした」(2013年以降の対談)
- 半田百合子「五輪までの2年間は正直しんどかった」(1995年の連載)
広く出回っているが、元が確かめられない言葉
大松博文の名言として名言サイトや本に載っている「1日休むと2日損する」は、元の場面が見つかりませんでした。著書の文を引いた論文の中にも、同じ文は見当たりません。本人の文で近いのは、1日は絶対にもどってこないと書いた1974年の文です。
次の言葉も名言として目にしますが、大松が言ったという記録までは、たどれませんでした。
- 黙って俺についてこい(本人は1974年に、この意味を否定しています)
- 痛かったら、痛くないようにやれ(東洋の魔女を描いた読み物の本の台詞)
- 休んでないで、はよう立て!俺のことが憎いか。鬼なら鬼と呼べばいい(同じ本の台詞)
- 今日がワシとお前たちの最後の日や(同じ本にある、1965年の解散式の言葉)
- ソ連が10の練習をするなら、お前らは15、17の練習をせい
- オリンピックが終わったら、婿は世話をする(結婚の世話をしたこと自体は、複数の資料が伝えています)
よくある質問(Q&A)
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