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渡辺元智の名言100選!横浜高校の渡辺監督の「目標がその日その日を支配する」

渡辺元智の名言100選!横浜高校の渡辺監督の「目標がその日その日を支配する」

高校野球の横浜高校を率いて甲子園で5度優勝した渡辺元智監督は、選手たちに「目標がその日その日を支配する」と説き続けました。スパルタから対話へ変わり、「栄光より挫折」と語った渡辺元智の名言と、松坂大輔ら教え子が今も忘れないという名言は、負けて立ち止まった時に力をくれます。

2026.11.08 | 野球

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公式ライター
Activel編集部

渡辺元智は、横浜高校を甲子園で5度の優勝に導き、松坂大輔らを育てた高校野球の監督です。2026年8月に81歳で亡くなりました。スパルタから対話へ指導を変えた50年の中で、渡辺元智の名言は生まれました。「目標がその日その日を支配する」「栄光より挫折」が語られた場面と教え子が忘れない言葉は、負けて立ち止まった時に力をくれます。

渡辺元智監督のプロフィール

渡辺元智監督は神奈川県の松田町に生まれ、肩の故障で選手の夢をあきらめた後、母校の横浜高校で50年にわたって高校球児を指導しました。亡くなったのは2026年8月17日、母校が夏の甲子園を戦っている最中でした。

基本プロフィール

甲子園の51勝は歴代5位タイで、1970年代から2000年代まで4つの年代すべてで甲子園を制した監督は、渡辺監督のほかにいません。

項目 内容
名前 渡辺元智(わたなべ もとのり)
生没 1944年11月3日〜2026年8月17日
出身 神奈川県足柄上郡松田町
経歴 横浜高校→神奈川大学(中退)
指導歴 1965年コーチ、1968年監督
甲子園 春15回・夏12回出場、51勝22敗
優勝 1973年春・1980年夏・1998年春夏・2006年春
勇退 2015年夏

生い立ち:養子に入って野球を続け、肩の故障で夢を断たれるまで

幼い頃に父親が病気になり、家の暮らし向きでは高校で野球を続けるのが難しかったそうです。母親の妹の家に養子に入ったことで横浜高校で野球ができるようになり、プロを目指しました。ところが神奈川大学に進んで1年目に肩を痛め、手術でも治らないと分かります。学費を出してもらった養家にも顔向けできない思いから「遠くへ逃げたい」と千葉へ移り、ブルドーザーの修理工場で働きました。そうして1年ほどたった頃、母校から声がかかります。

横浜高校の監督として甲子園5度優勝、50年の歩み

渡辺元智監督の歩みと名言の年表(1965年コーチ就任、1973年センバツ初優勝、1980年夏の全国制覇、1998年春夏連覇、2006年センバツ優勝、2015年夏の勇退まで)

1965年に20歳で母校のコーチになり、1968年に監督に就任しました。日本一厳しい練習で鍛えたチームは、1973年のセンバツで初出場初優勝を果たします。しかしスパルタだけでは行き詰まり、渡辺監督は選手との対話を増やしていきます。愛甲猛投手を自宅に住まわせて迎えた1980年には、初めて夏の甲子園を制しました。

その後は甲子園に出ても勝ち進めない時期が長く続きます。盟友の小倉清一郎さんを1990年秋に呼び戻し、1998年には松坂大輔投手らを擁して春夏連覇を達成し、秋の国体まで公式戦44連勝という記録を残しました。2004年に脳梗塞で倒れた後も、2006年のセンバツで5度目の優勝を果たしています。2015年夏の神奈川大会決勝で東海大相模に敗れたのを最後に監督を退きました。

座右の銘は「目標がその日その日を支配する」

渡辺元智の座右の銘は、「目標がその日その日を支配する」です。もとは大正時代の思想家、後藤静香の詩「第一歩」の最後の1行です。渡辺監督は高校時代に、学校の創立者でもあった校長が朝礼でこの詩を披露するのを聞いて感銘を受けたと、2021年のラジオ番組で話しました。詩の全文はこうです。

監督になってからはミーティングのたびにこの1行を書き、嫌われても毎日言っていたそうです。一方で、2015年の最後の試合の後に座右の銘を聞かれた時は、変わらないものとして「選手を信頼するっていうこと」を挙げました。

渡辺元智の名言100選

横浜高校の渡辺監督は若い頃、選手が逃げないように自分の足と選手の足をロープでつないだこともありました。その監督が、松坂大輔の時代には「どんなに頭に来ても対話で説明しないと」と話しています。渡辺元智の名言を時期ごとに読んでいくと、厳しさの中身が変わっていったことが伝わってきます。教え子たちも「監督にこう言われた」と今も話しています。今の横浜高校の監督で教え子の村田浩明さんが聞いた最後の言葉は、「もう次の準備だよ」でした。

スパルタから対話へ、1973年と1980年の全国制覇の名言

渡辺監督は横浜高校の監督になった頃、日本一長く練習すれば勝てると考えていました。その考えが変わっていったきっかけは、1973年の決勝でかけた一言と、1980年の春に控え投手が合宿所を飛び出した出来事でした。

01「夢を捨てないでかすかにやってたことが、神様に通じたんじゃないのかなと思ってね。」

— 2021年4月、ニッポン放送の番組で20歳の頃を振り返って

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発言時期: 2021年4月の番組(話の中身は1965年ごろ)

発言状況: 肩を痛めて大学をやめ、千葉のブルドーザーの修理工場で働いていた頃の話です。仕事の後には野球のことがよみがえり、工場の中でキャッチボールだけは続けていたと話しています。そんな時、母校の監督が事情で辞めることになり、渡辺さんにコーチとして白羽の矢が立ちました。声がかかった時は「お願いします!」と飛びついたそうです。

02「自分が野球できないけども、教えるっていう事がねあるんだなって。」

— 同じ番組で、コーチの話が来た時の気持ちを聞かれて

03「プロ野球の選手になりたいという夢が消えて、今度は日本一になりたいという夢に変わったんです。」

— 同じ番組で、母校に戻った頃を振り返って

04「日本一厳しく、日本一長く練習すれば、必ず甲子園に行ける」

— 監督に就任した当初の考えとして、2015年の記事が伝える言葉

05「合宿中に選手が逃げないよう、自分の足と選手の足をロープでつないだこともある」

— スパルタだった頃の指導を、後年振り返って

06「お前次バッターで回ってくるじゃないか。打ちゃいいじゃねぇか」

— 1973年春のセンバツ決勝、落球した選手にかけた言葉

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発言時期: 1973年春(本人が話したのは2021年4月の番組)

発言状況: 広島商業との決勝で、10回表に1点を取り、その裏を抑えれば勝ちという場面でした。レフトの富田選手がフライを落として同点になり、ベンチに戻って「すいません」と言った時に、ぶっきらぼうにかけた言葉です。富田選手は涙を流したまま打席に向かい、レフトのポール際に2ランホームランを打ちました。後に講演の会場で再会して「まだ怒ってるのか」と尋ねると、あれは嬉し涙だったと聞かされたそうです。

07「スパルタばかりじゃなくて変えなきゃいけないなって。」

— 2021年4月の番組で、1973年の決勝の一言を話した後に

08「愛甲の時はね、不良の集まりだった。あの時は若かったから毎日が勝負。」

— 記者に語った、愛甲猛投手がいた1980年前後の話

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発言時期: 話の中身は1978〜1980年(記者が2026年8月の追悼の記事で伝えた)

発言状況: 1978年に入学した愛甲猛投手は、1年生の冬に野球部を離れます。渡辺監督は実家に何度も足を運んで説得し、野球部に戻した愛甲投手を自宅に住まわせて、私生活の面倒まで見ました。愛甲投手は2026年のお別れの会で「多分、監督さんの野球人生の中で、僕が一番迷惑をかけたと思う」と話しています。1980年の夏、横浜高校は決勝で早稲田実業を6-4で破り、初めて夏の全国制覇を果たしました。

09「私は指導者としての自分の愚を悟った」

— 著書『育成力』で、1980年春の出来事を振り返って

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発言時期: 話の中身は1980年春

発言状況: 愛甲投手にばかり目を向けていた頃、同じ学年の控え投手だった川戸浩投手が、3年生の春に合宿所を抜け出して実家に帰ってしまいます。渡辺監督は「私の心に自責の念が込み上げてきた。」と書き、常に愛甲投手の陰で黙々と練習してきた川戸投手のつらさに思い至ります。説得されて部に戻った川戸投手は、その夏の決勝で愛甲投手の後を継いで投げ、早稲田実業を抑えました。

松坂大輔と1998年の春夏連覇の名言

横浜高校に入学した時の松坂大輔は、渡辺監督から見ると、ボールは速くてもコントロールのない投手でした。1年生の松坂投手は監督室に呼ばれ、握力のトレーニングを兼ねて監督をマッサージしながら、なにげない話をしていたそうです。そこから2年後の夏には、0-6で迎えた8回に、渡辺監督が「目いっぱい楽しもうじゃないか」と選手に語る試合が待っていました。2026年に松坂さんが恩師へ贈った言葉は、松坂大輔の名言にあります。

10「本当の黄金時代を築きたかった。1人でまとめるには限界もあったし、野球に関しては小倉にはかなわないと思っていたから」

— 1990年秋に小倉清一郎さんを呼び戻した理由を、記者に語って

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発言時期: 話の中身は1990年秋

発言状況: 小倉清一郎さんは横浜高校の同期生です。1977年に一度コーチになりましたが2年たたずに離れ、その後は横浜商業のコーチとしてライバルの関係にありました。渡辺監督が声をかけて再び組んだ後は、戦術を教える小倉さんと、人としての教えを受け持つ渡辺監督の形ができ、8年後の春夏連覇につながりました。

11「彼には期待してるんですよ。ただちょっと油断すると太るんですよ。」

— 1997年の春季関東大会で優勝した時、2年生の松坂投手について記者に

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発言時期: 1997年の春季関東大会(茨城県)

発言状況: 取材の記者に「あの投手良いですね」と声をかけられ、笑顔で答えた言葉です。「だから太らないように走らせてますよ」と続きました。松坂投手はまだ世に知られていない2年生でした。渡辺監督はその記者に、翌年の春夏の甲子園と地元の国体に向けて集めた選手の1人だと教えてくれたそうです。

12「でも愛甲がいた時みたいに力ずくではダメなんですよ。どんなに頭に来ても対話で説明しないと」

— 同じ時、記者に指導の悩みを話して

13「ボールはものすごく速かったんですよ。ですけどもコントロールはない。」

— 2021年4月の番組で、1年生の松坂投手の印象を聞かれて

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発言時期: 2021年4月の番組(話の中身は松坂投手が1年生の頃)

発言状況: バッティングがすばらしいので打者にしようかとも考えたそうです。1年目の夏は、甲子園の雰囲気を味わわせようと連れて行き、スタンドで見させました。その後は小倉さんがノックで鍛え、渡辺監督はブルペンで緩いボールを投げさせるなど、あらゆることを試してコントロールを良くしていきました。

14「彼は号泣ですよ。立ち上がれないくらい泣いてましたね。」

— 同じ番組で、1997年夏の神奈川大会の準決勝を振り返って

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発言時期: 話の中身は1997年夏

発言状況: 渡辺監督が「甲子園は間違いないと言われてた」と振り返る2年生中心のチームが、準決勝で横浜商業に敗れた試合です。松坂投手の大暴投で負け、「そのたった一つの暴投が甲子園への道を阻んだんですよね」とも話しました。この負けの後、新チームは公式戦で44連勝します。

15「怪物になるのは2年生の秋の大会から。すごい力を発揮する。」

— 同じ番組で、怪物になったのはいつからかと聞かれて

16「何で打たれるのか? ストレートも変化球もドンピシャ。ひょっとしたら負けるんじゃないかと一瞬考えた」

— 1998年夏のPL学園戦のことを、後にテレビ番組で話して

17「おまえら、勝つ気があるのか」

— 1998年8月21日の準決勝、明徳義塾戦の5回が終わった後のベンチ裏で

18「可能性のある限り残り2回を目いっぱい楽しもうじゃないか」

— 同じ試合、6点を追う8回裏に選手たちへ

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発言時期: 1998年8月21日

発言状況: 前の日にPL学園と延長17回を戦い、250球を投げた松坂投手を温存した準決勝です。0-6とリードされて迎えた8回裏、この言葉を合図に4点を返しました。9回表には左翼を守っていた松坂投手がマウンドに上がって15球で抑え、横浜高校はその裏に3点を奪って逆転サヨナラ勝ちを収めました。

19「何が起こるか分からんから、ゼロに抑えてくれ」

— 同じ試合、9回表のマウンドに松坂投手を送る時に

20「最後は松坂が出てきてチームが一つになった」

— 同じ試合の後に

21「信じられない。野球人生において考えもしなかったことが2日連続で起こった」

— 同じ試合の後に、PL学園戦と明徳義塾戦を振り返って

22「春夏連覇はうちにとって100年に一度あるかないかのチャンス。」

— 1998年8月21日、翌日の決勝を前に

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発言時期: 1998年8月21日

発言状況: 「気持ちが強過ぎるのは良くないが、狙う姿勢は崩さずに戦いたい。」と続きます。翌22日の決勝で、松坂投手は京都成章を相手にノーヒットノーランを達成し、3-0で勝った横浜高校は史上5校目の春夏連覇を果たしました。

23「この金字塔を達成出来た大きな要因は、目標・夢をかかげ、チーム一丸となって耐えたからです。」

— 2020年5月、故郷の松田町に寄せたメッセージで

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発言時期: 2020年5月18日(町のページの掲載日)

発言状況: 緊急事態宣言の外出自粛の中で、故郷の町の人たちに向けて書いたメッセージの一節です。春夏の甲子園と国体、明治神宮大会を制して四冠を達成し、年間44連勝0敗だった1998年度を振り返り、この言葉の後に「One for all 一人は皆のために」と続けました。

出典: 松田町公式「渡辺元智さんメッセージ」

24「最初から春夏連覇なんて考えたことないですね。」

— 2021年4月の番組で、春夏連覇について話して

「山は登ったら降りなければいけない」人を育てる指導の名言

横浜高校では、技術を小倉清一郎さんが教え、人としての教えを渡辺監督が受け持っていました。頂点に立った後の下山の話や、選手の「すいません」の聞き方の話は、野球以外の場で人を教える立場にも通じます。

25「この年(61歳)で優勝なんて、思っていなかった。大変な感激です」

— 2006年春のセンバツで優勝した後のお立ち台で

26「時代とともに、指導方法は変わらないといけない」

— 2015年5月の記事が、監督のモットーとして紹介した言葉

27「一人で考えているだけでは、平面しか見えない。人が人を動かすわけだから、多面的に野球を捉えるには人間論でいかなければいけない」

— 2014年8月のインタビューをもとにした記事で

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発言時期: 2014年8月のインタビューをもとにした、2015年5月の記事

発言状況: 横浜高校では、技術を小倉さんが教え、人間力を渡辺監督が説くと役割を分けていました。渡辺監督は時間を作っては外に出かけ、政治家や起業家などほかの仕事の人と交流していました。「選手たちは横浜高校の野球しか知らない」ので、指導者が外で吸収して選手の視野を広げるのだと語りました。

28「選手たちがどういう意味で『すいません』と言っているのか、指導者は理解しなければいけない。」

— 同じ記事で

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発言時期: 2014年8月のインタビューをもとにした、2015年5月の記事

発言状況: 部員が100人を超えるチームで、選手の言葉からなるべく多くを読み取ろうとしていた時の言葉です。「選手たちが思っていることを言い切れずに、『すいません』と内にこもらせてはダメ。『怒られた理由を教えてください』と言える関係を築かなければならない」と続きます。

29「野球の好きな子が集まっているから、やる気になれば自然とうまくなる。『俺について来い』というだけの時代ではない」

— 同じ記事で、選手をやる気にさせる話として

30「横浜高校は、常に全国優勝という山を登る気でいなくてはいけない。」

— 同じ記事で、横浜高校の強さの理由を話して

31「つまり山は登ったら降りなければいけない。新たな心構えをもたないと、次の山に登ることはできない」

— 同じ記事で、頂点に立った後の話として

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発言時期: 2014年8月のインタビューをもとにした、2015年5月の記事

発言状況: 春のセンバツで優勝した後の夏に向けて、一度山を降りる話です。暑さや気象条件が変わるので心構えも改まり、ユニフォームも薄くなります。春と夏ではすべてが違うと説明しました。

32「経験は素晴らしいことだけど、『自分には経験がある』という甘さをもったまま次の山に行くと、大きな事故を起こしかねない。」

— 同じ記事で、下山の話に続けて

33「苦しさを乗り越えて、次の楽しさにつながる。選手にそう話し、結果を出させることで、やる気を引き起こす」

— 同じ記事で、たどり着いた指導の形として

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発言時期: 2014年8月のインタビューをもとにした、2015年5月の記事

発言状況: 渡辺監督の指導の形は、46年の監督歴で大きく変わりました。厳しく長い練習から選手との会話へ、さらにのびのびやらせる形へと変えましたが、自由がわがままになり、18年間優勝から遠ざかります。そうして行き着いた楽しさと厳しさの両立が、1998年の春夏連覇につながりました。

34「何の変哲もない白いボールの中にも人生がある」

— 野球部の3つの指針の1つとして

35「指導者に徳がなければ、教え子を育てることなどできないということである。」

— 著書『育成力』で

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発言時期: 話の中身は1981年以降、甲子園で勝てなかった時期

発言状況: 1980年の夏の後、甲子園には出ても勝ち進めない時期が続きました。その間に渡辺監督は、地元の勉強会などでほかの仕事の第一人者と交流を重ねます。「分野こそ違えど、人を育てるということの根底にある考え方に違いはないということも分かった。」と書いた後に、この言葉を続けました。

「栄光より挫折」2015年夏、最後の試合の名言

「栄光より挫折」は、70歳で臨んだ最後の夏、神奈川大会の決勝で東海大相模に0-9と敗れた後の会見で語られました。この夏の横浜高校はシードのない立場から決勝まで勝ち上がり、閉会式の後には選手たちが監督を3度胴上げしました。

36「4月下旬に自分で決めた。体力に自信がなくなった。選手に迷惑をかけてしまう」

— 2015年5月、その夏限りでの退任を申し入れた後に

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発言時期: 2015年5月

発言状況: 1989年に胃潰瘍で長く入院し、2004年には脳梗塞で倒れ、その頃は腰痛やメニエール病にも苦しんでいました。腰痛が悪くなってノックを打つことも難しくなり、指導者になって50年の節目で退くことを決めました。

37「よくこれで勝てた。2週間ベストコンディションは無理。どん底で勝てたのは今後につながる」

— 2015年夏の神奈川大会5回戦、藤沢翔陵戦の後に

38「勝ち進むほどチャンスも少ない。僅かなチャンスをいかにものにするか―」

— 同じ大会の準々決勝、横浜隼人戦の後に

39「原貢さんに追いつけ、追い越せの気持ちでやってきた。最後が東海大相模だったというのは特別な思いがある」

— 同じ大会の決勝、東海大相模に敗れて

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発言時期: 2015年7月28日

発言状況: 原貢さんは、1970年夏に全国制覇した東海大相模の監督です。渡辺さんが監督になった頃の神奈川で、何度も甲子園への道を阻まれた相手でした。50年の最後の試合の相手が、その東海大相模だったことになります。

40「栄光より挫折、勝利より敗北、成功より失敗。それを私は選手に言い続けてきました。負けて初めて覚えることもある。失敗しなくては、絶対にうまくはならないんです。今日の敗戦を、無駄にして欲しくない」

— 2015年7月28日、最後の試合の後の会見で

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発言時期: 2015年7月28日

発言状況: 横浜スタジアムでの神奈川大会決勝の後の会見です。50年近い指導者人生を振り返っても、思い出の試合や選手の名前を挙げることはありませんでした。ただ、最も糧になった敗戦を聞かれると、前の年の夏の負けを挙げました。孫の佳明選手と小倉さんの最後の年でした。

41「高校野球というのは、強いチームを倒すための練習にこそ意味があり、私は目標に向かっていくことの大切さを教えてきました。」

— 同じ会見で

42「お互いに、白いボールを追っかける中で、絆が生まれ、人生がある」

— 同じ会見で

43「選手に感謝。その一言ですね。」

— 同じ日の取材で、最後の戦いを聞かれて

44「右も左も高校野球一筋だった。白い球を追いかける中に人生があった」

— 同じ日の試合の後に

45「一つだけは変わらないことは、選手を信頼するっていうことですかね。」

— 同じ日の取材で、座右の銘を聞かれて

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発言時期: 2015年7月28日

発言状況: 「どんな座右の銘を支えに選手と向き合ったか」と聞かれた時の答えです。厳しいことも言ってきて、50年の間に変わったことも四つや五つあるけれど、と前置きしてこう話しました。「諦めずに選手を何とか引っ張って来れた」「信じて着いてきてくれたと思います」と続けています。

46「試合で怒っていたら今の選手は萎縮するでしょう。」

— 同じ日の取材で、にこにこしている印象を聞かれて

47「私自身我慢、我慢の野球だったかも分からないですね。」

— 同じ取材で、選手を怒らない理由を話した後に

48「ほんとうにね、メッカですよね。あそこに行くと、ほんとうに心が洗われると言いますか、いろんなことを教えてくれると言いますか」

— 同じ日の取材で、甲子園はどんな舞台かと聞かれて

49「やっぱりうちに帰って、女房と一杯飲んだら終わったかな、と。」

— 同じ日の取材で、試合が終わった瞬間の思いを聞かれて

50「門馬監督が先だろう、と。」

— 同じ日、選手に胴上げされそうになった時のことを話して

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発言時期: 2015年7月28日

発言状況: 試合の後、横浜高校の選手たちが渡辺監督を胴上げしようとした時に、優勝した東海大相模の門馬敬治監督が先だと言った、と話しています。門馬監督は配慮したのか胴上げされずにベンチへ引き上げ、渡辺監督は「すごい監督に成長しつつあるなあ」とたたえました。

「9回の中に人生の縮図」勇退の後に語った名言

監督を退いた後の渡辺さんは、2018年の雑誌の取材や2021年のラジオ番組で、野球を通じて教えたかったことを話しました。ノックは「唯一のコミュニケーションの場」だと言い、補欠の選手を大事にする話は、そのまま人生の話へ広がっていきます。

51「栄光より挫折、勝利より敗北。成功より失敗から学んだことのほうが多かった」

— 2018年8月の雑誌の記事で、約50年の監督人生を振り返って

52「絶対に諦めるな。全国制覇を目指そう。高い目標に向かって逞しく前進しなさい」

— 同じ記事で、チーム力が弱い年に選手にかける言葉として

53「苦しみのなかへ積極果敢に突入していくところに、野球(人生)の徳が醸し出される」

— 同じ記事で

54「目標がその日その日を支配する」

— 2021年4月の番組で、今でも忘れられない言葉を聞かれて

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発言時期: 2021年4月の番組

発言状況: 「自分が高校時代にね感銘を受けた言葉です」と話して挙げました。卒業する柳裕也投手に贈った色紙にもこの言葉を書いていて、松坂大輔さんの座右の銘にもなっています。

55「コツコツコツコツ重ねてかなければだめだと。」

— 同じ番組で、ミーティングで選手に話した意味を説明して

56「目標がなければ何を具体的にやっていったらいいのか?」

— 同じ番組で、目標を持つ意味を説明して

57「松坂の時にはやっぱり『ワンチーム』『人生の勝利者目指せ』『仲間を大事にしよう』とか、そういう格言を多くしましたよ。」

— 同じ番組で、松坂投手らの代について

58「やっぱりノックができない監督はいい監督になれない。」

— 2021年4月の番組で、こだわりの用具を聞かれて

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発言時期: 2021年4月の番組

発言状況: 監督時代のこだわりの用具としてノックバットを挙げた時の言葉です。若い頃は高いキャッチャーフライを打ち上げて、甲子園や横浜スタジアムを沸かせたそうです。なぜノックにこだわるのかと聞かれると「唯一のコミュニケーションの場ですよ」と答えています。

59「練習=実践なんですよ。練習と試合が全く異なったら練習をやる意味がない。」

— 同じ番組で、練習について話して

60「僕は偶然という言葉は使いたくない。」

— 同じ番組で、備えの野球について話して

61「好きなものに向かって一生懸命努力することは決して無駄じゃないと。」

— 同じ番組で

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発言時期: 2021年4月の番組

発言状況: 春夏連覇を目指したのは勝利至上主義ではない、という話の中の言葉です。成し遂げられなくても「やるんだ」という姿勢が、野球が終わった後の人生に役立つと話しています。努力するためには親や仲間、支えてくれた人を大事にしなければならないとも続けました。

62「人を育てるっていうことが一番大事なことなんですね。」

— 同じ番組で、高校野球の魅力を聞かれて

63「好きな野球だからこそ耐えられる。」

— 同じ番組で、コロナ禍の高校野球について

64「9回の中に人生の縮図と言いますか、あらゆるものが詰まってる。」

— 同じ番組で、高校野球を通じて教えたことを聞かれて

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発言時期: 2021年4月の番組

発言状況: 誰かが送りバントをして、自分でホームを踏む、という野球の形から話を広げています。満塁ホームランの4打点も、誰かがフォアボールで出たことや相手のエラーが重なってできるのだと説明し、打点以上に得点を大切に考えると話しました。

65「僕は打点以上に得点っていうことが素晴らしいと。必ず伏線があるわけです。」

— 同じ番組で、得点の裏にあるものについて

66「そういう下の選手を大事にするところが甲子園の優勝に繋がってくる」

— 同じ番組で、補欠の選手について話して

67「苦しさが楽しさになっていかなきゃいけない。」

— 同じ番組で、今の「楽しくやろう」という風潮について

68「練習では自分が下手、試合は自分が一番うまいと思え」

— 勇退の後、グラウンドで球児たちにかけた言葉

69「野球を通じて人生の荒波のくぐり方を学んで欲しい」

— 監督時代によく語っていた言葉

70「チームに何が必要で、自分は何ができるか」

— 選手たちに考えるよう指導した言葉

故郷へのメッセージと2026年夏の名言

外出自粛が続いた2020年5月、渡辺監督は故郷の松田町の人たちに「コロナと我慢比べです。」と呼びかけました。亡くなる3週間ほど前の2026年7月には、杖をついて神奈川大会を見に来て、横浜高校の織田翔希投手を高校時代の松坂投手と比べる言葉を残しています。

71「何が足りないか考えた結果、忍耐力でした。心の問題です。諦めない強い気持ちです。」

— 2020年5月、故郷の松田町に寄せたメッセージで

72「愛と心が人を動かす」

— 同じメッセージの4つのスローガンの1つとして

73「コロナと我慢比べです。」

— 同じメッセージで、町の人たちに

74「富士山に登る第一歩、松田山に登る第一歩」

— 同じメッセージで、故郷の町の人たちに向けて

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発言時期: 2020年5月18日(町のページの掲載日)

発言状況: 後藤静香の詩にある三笠山を、故郷の松田町の松田山に替えて書いた一節です。「同じ一歩でも覚悟が違う。どこまで登るつもりか」「目標がその日その日を支配する」と続きます。1998年の金字塔を振り返った後、外出自粛が続く町の人たちに向けて贈りました。

出典: 松田町公式「渡辺元智さんメッセージ」

75「高校時代の松坂と比べると、織田の方がいいんじゃないかな。いい投手だよね。」

— 2026年7月24日、神奈川大会準決勝の慶応戦を観戦して

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発言時期: 2026年7月24日

発言状況: 横浜高校の織田翔希投手が最速157キロを出し、7回の途中まで無安打無失点に抑えた試合を、横浜スタジアムで見た時の言葉です。「将来的にこれからもっと伸びて、プロの世界でも、松坂クラスになる可能性を秘めている」と続けました。

76「村田がやってくれました。いい顔をしていました。村田の考えを、選手たちが理解している。いい形だと思います」

— 2026年7月26日、教え子の村田浩明監督が決勝を制した後に

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発言時期: 2026年7月26日

発言状況: 神奈川大会の決勝で桐光学園を破った試合の後に、笑顔で取材に応じた時の言葉です。村田監督は2020年に、渡辺さんが強く推して母校の監督になった教え子でした。渡辺さんはこの約3週間後の8月17日に亡くなっています。

松坂大輔ら教え子が伝える渡辺監督の名言

ここからは、教え子たちが「監督にこう言われた」と話している言葉です。同じ教えでも人によって言葉の形が少し違い、「人生の勝利者たれ」は卒業する部員に贈られ、孫の佳明さんには「人生の勝利者になれ」と伝わっています。

77「人生の勝利者たれ」

— 卒業していく部員たちに贈った言葉(2015年の記事が紹介)

78「栄光より挫折、成功より失敗、勝利より敗北から学びなさい」

— 松坂大輔さんが2026年8月18日、テレビの生放送で忘れられない言葉として

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発言時期: 2026年8月18日(渡辺さんが亡くなった次の日)

発言状況: 渡辺監督は練習中も声を荒らげることはほとんどなく、心に響く言葉をたくさんかけてもらったと松坂さんは話し、特に忘れられない言葉としてこれを挙げました。2年生の夏、神奈川大会の準決勝で自分の暴投によりサヨナラ負けした時にこの言葉の意味を身をもって知り、3年の春夏連覇につなげたと振り返っています。

79「覚悟を持つ」

— 松坂大輔さんが同じ放送で、もう1つの忘れられない言葉として

80「我慢しろ」

— 愛甲猛さんが2026年9月、お別れの会の取材で

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発言時期: 話の中身は1978〜1980年。話したのは2026年9月14日

発言状況: 試合中にいつもかけられた言葉だと話しています。3年の春にグラブを投げて本気で怒られてからは、喜怒哀楽を表に出さなくなったそうです。「その『我慢しろ』の言葉のおかげで、プロでも我慢して我慢して練習して、なんとかレギュラーをつかめた」と振り返りました。

81「冷静沈着」

— 愛甲猛さんが、監督が色紙に書くのを何度も見た言葉として

82「高い山に登ったら必ず下山する。いつも足元を見つめてやらないといけない。下山するのを失敗したら命取りになる。だから下山の仕方を間違うな!」

— 春夏連覇の主軸だった後藤武敏さんが2015年に、1998年センバツの優勝後の話として

83「下山したら、また足元を見つめて高い山に挑戦しよう」

— 後藤武敏さんが、同じ時に言われたと話して

84「俺は3年間そういう教育をしたつもりはない。お前がそう態度を示すならお前とはもう縁を切る」

— 後藤武敏さんが、1998年夏のPL学園戦の試合中に言われたと話して

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発言時期: 話の中身は1998年8月20日。話したのは2015年7月

発言状況: 審判のストライクの判定にふてくされ、打席の砂を蹴ったように見えた時に、甲子園のベンチで言われた言葉です。延長17回の試合の最中でした。後藤さんは試合の後で監督室に謝りに行って涙を流し、次の日の明徳義塾戦で同点打を打っています。

85「当たり前のことを当たり前にこなせないと野球なんてできるか!」

— 後藤武敏さんが、高校時代に言われたと話して

86「一人の人間としてしっかりしろ!」

— 筒香嘉智さんが2015年に、常に言われていたと話して

87「クライマックスシリーズだろうが、レギュラーシーズンだろうが、どんな試合の1打席も変わらない」

— 筒香嘉智さんが2026年8月に、プロ入り後に指導された言葉として

88「練習はウソをつかない」

— 卒業生の近藤健介さんが2015年に、教わった言葉として

89「けがだけはするな!」

— 卒業生の浅間大基さんが2015年に、よく言われたと話して

90「お母さんのために頑張れ」

— 柳裕也さんが、在学中もプロになってからも言われたと話して

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発言時期: 話したのは2026年8月

発言状況: 15歳の時、宮崎に招待試合で来た渡辺監督をバスの前で待ち、入学を直談判した柳裕也さんの話です。母子家庭で育った柳さんは、家に呼ばれてごちそうになったこともあり、渡辺監督は恩師であるだけでなく父親代わりでもあったと語りました。卒業の時に贈られた色紙には「目標がその日その日を支配する」と書かれていました。

91「人生の勝利者になれ」

— 孫の渡辺佳明さんが2026年8月18日に、ずっと言われていたと話して

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発言時期: 話したのは2026年8月18日

発言状況: 孫の渡辺佳明さんは横浜高校で2年の夏と3年の春に、監督である祖父とともに甲子園に出ました。楽天の選手として取材に応じ、プロに入る時にも「これだけは持ってけ」と書いてもらった言葉だと話しています。

92「この負けは許されない。出処進退を書け」

— 村田浩明監督が2026年9月のお別れの会の弔辞で

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発言時期: 話の中身は2024年夏。話したのは2026年9月14日

発言状況: 2年前の夏の神奈川大会決勝で東海大相模に敗れた時に、厳しく叱られた言葉として弔辞の中で明かしました。出処進退は、職にとどまるか退くかのことです。村田監督は渡辺さんの推薦で母校の監督になった教え子で、横浜高校を「継承し、一緒になって作っていく」と話しています。

93「村田野球、よかったよ」

— 村田浩明監督が2026年8月18日に、最後の会話として

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発言時期: 2026年夏の甲子園の2回戦、日南学園戦の次の日

発言状況: 村田監督によると、試合の前に恒例だった電話が3回戦の前にはつながらず、「何かあったのかな」と感じていたそうです。渡辺さんが亡くなった次の日の準々決勝に勝った後、この言葉を最後の会話として明かしました。

94「もう次の準備だよ」

— 村田浩明監督が、同じ最後の会話で聞いた言葉として

95「周りを見て、チームメートを信じて投げなさい」

— 織田翔希投手が2026年8月に、2025年のセンバツの頃に言われたと話して

96「お前はお前らしくいけ」

— 横浜高校の小野舜友主将が2026年8月に、心に残る言葉として

97「今、温泉の帰りで電話してみたけど、多村の解説は分かりやすくて、よく勉強してるな!」

— 卒業生の多村仁志さんが2026年8月に、亡くなる少し前の電話として

98「投手はマウンドでは孤独、人と闘うまえにまず自分と闘え」

— 2015年当時の3年生、高橋修人選手のノートに書かれた語録

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発言時期: 2015年7月の記事が紹介(言った時期は分からない)

発言状況: 遊撃手の高橋修人選手が3年間書きためたノートは、大きなものが2冊、メモ用を含めると10冊を超えました。当時の記事はこの言葉を含む3つを渡辺語録として伝えていて、ノートには小倉コーチのひと言も書かれていました。

99「仲間は宝、誰一人いらない者はいない」

— 同じノートに書かれた語録

100「闘志なき者はグラウンドを去れ」

— 同じノートに書かれた語録

よくある質問(Q&A)

Q1. 「目標がその日その日を支配する」は誰の言葉?

もとは大正時代の思想家、後藤静香の詩「第一歩」の最後の1行です。渡辺元智が高校時代に、校長が朝礼で披露するのを聞いて感銘を受け、監督になってから選手に言い続けました。

この言葉は選手たちに受け継がれ、松坂大輔さんの座右の銘にもなりました。卒業する柳裕也投手に贈った色紙にも、渡辺監督はこの言葉を書いています。

Q2. 「人生の勝利者」とはどんな意味?

野球の勝ち負けだけでなく、野球を終えた後の人生で勝つ人になりなさい、という教えです。「人生の勝利者たれ」は、卒業していく部員たちに贈られた言葉で、渡辺元智の著書の題名にもなっています。

補欠だった選手も、そのまま終わらせたくない、と本人は番組で話しました。子どもたちが野球によって最後まで立派に生き抜いていくように育てたい、という考えが、この言葉の元にあります。

Q3. 「栄光より挫折」はいつの言葉?

2015年7月28日、最後の試合の後の会見での言葉です。渡辺元智は東海大相模に敗れた後で「栄光より挫折、勝利より敗北、成功より失敗。それを私は選手に言い続けてきました」と話しました。

「言い続けてきました」のとおり、監督時代からの教えです。松坂大輔さんも高校時代に聞いた言葉として、「栄光より挫折、成功より失敗、勝利より敗北から学びなさい」を挙げました。

Q4. 松坂大輔にはどんな言葉をかけた?

松坂大輔さんが今も忘れられないと話すのは、「栄光より挫折、成功より失敗、勝利より敗北から学びなさい」と「覚悟を持つ」の2つです。「目標がその日その日を支配する」は、松坂さん自身の座右の銘になっています。

1年生の頃の松坂さんは監督室に呼ばれ、握力のトレーニングを兼ねて監督をマッサージしながら、なにげない話をしたそうです。その時間を、松坂さんは「未だに忘れられない」と振り返りました。

Q5. 「甲子園に魔物なんて棲んでいない」は本人の言葉?

本人の言葉かどうかは、はっきりしません。名言を集めたサイトやブログには載っていますが、いつ、どこで話したのかを書いたものが見つからないからです。

そのため、上の100選には入れていません。近い考えの言葉には、備えの野球について話した時の「僕は偶然という言葉は使いたくない。」があります。

Q6. 渡辺監督の著書はある?

あります。監督を退いた後に書き下ろした『人生の勝利者たれ』のほか、スパルタから対話へ変わった歩みを書いた『育成力』などです。


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