高橋藍(髙橋藍)の名言80選!座右の銘、イタリア挑戦、最後の1点への言葉
バレーボール日本代表のエース高橋藍(髙橋藍)は、高校2年まで試合前にオエッとなるほど緊張する選手でした。イタリア挑戦とパリ五輪の悔しさを経て最後の1点を追う高橋藍の名言を、座右の銘「勇気と信念が世界を変える」をはじめ、時期と場面つきで読めます。
Writer
公式ライター Activel編集部
高橋藍(髙橋藍)は、男子バレーボール日本代表で、スパイクもレシーブもこなすアウトサイドヒッターです。東京とパリの五輪を戦い、イタリアで3シーズンを過ごし、2026年からはポーランドのルブリンでプレーしています。ところが高校2年までは、試合前にオエッとなるほど緊張する選手でした。高橋藍の名言には、緊張をどう手放し、言葉の通じないイタリアで何をして、パリで届かなかった最後の1点をどう追っているかが残っています。ポケモンカードにつられてバレーを始めた話や、会場を笑わせた「ひき肉です」も、この人の言葉です。
高橋藍のプロフィール
高橋藍は、レシーブのうまさと得点力を両方持つアウトサイドヒッターです。2025年には日本の新しいリーグ、SVリーグの初代王者になってMVPに選ばれ、2026年9月にはアジア選手権でもMVPになり、ロス五輪の出場権をつかみました。名前は「高橋藍」とも「髙橋藍」とも書かれますが、同じ人です。
基本プロフィール
2m級の選手がそろうイタリアのリーグで戦った高橋藍の身長は、188cmです。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 名前 | 高橋藍(髙橋藍・たかはし らん) |
| 生年月日 | 2001年9月2日 |
| 出身 | 京都府京都市 |
| 身長 | 188cm |
| ポジション | アウトサイドヒッター |
| 所属 | ボグダンカ・LUK・ルブリン(ポーランド) |
| 学歴 | 東山高校・日本体育大学 |
| 家族 | 両親、兄(髙橋塁)、妹 |
| 日本代表 | 2020年に初選出 |
生い立ち:ポケモンカードにつられてバレーを始めた少年が春高で優勝するまで
バレーを始めたのは小学2年です。2歳上の兄の塁が入っていた京都市のチームの練習について行くと、コーチに「バレーを始めるならカードをあげるよ」と誘われました。当時大好きだったポケモンカードにつられて入ったと、本人が話しています。
中学は京都市立蜂ヶ岡中で、3年連続で全国大会に出ました。兄のいる東山高校に進みましたが、1年と2年の時は京都の洛南に勝てず、春高(春の高校バレー)に出られませんでした。自信がなく、試合前に緊張で苦しんだのもこの頃です。
高校3年で主将とエースを務め、2020年1月の春高で東山を初優勝に導きました。東山は全6試合で1セットも失いませんでした。高橋藍は決勝で両チーム最多の26得点を挙げ、MVPにも選ばれています。
日本体育大学からポーランドまでの歩み

2020年に日本体育大学へ進み、同じ年に日本代表に初めて選ばれました。2021年の東京五輪は19歳で全試合に先発してベスト8に入りましたが、悔しさが残り、その年の12月にイタリアのパドヴァへ渡りました。パドヴァで2シーズンを戦った後、世界のトップ選手がそろうモンツァへ移り、プレーオフ決勝まで進んでいます。
2024年のパリ五輪は、準々決勝でイタリアにフルセットで敗れています。第3セットはあと1点で勝ちという所まで迫りながら、その1点が取れませんでした。その後は日本に戻り、サントリーサンバーズ大阪で2シーズンを戦っています。1年目は新しくできたSVリーグの初代王者になり、2年目は主将を任されましたが、決勝で敗れて悔し涙を流しました。
2026年9月のアジア選手権では決勝でイランを破り、2年後のロス五輪の出場権を手にしました。同じ月にポーランドへ渡り、10月には現地のスーパーカップの決勝に勝ち、移籍後初めてのタイトルを取っています。
座右の銘
高橋藍の座右の銘は、「勇気と信念が世界を変える」です。アメリカのドラマ『プリズン・ブレイク』に出てくる言葉で、2021年のインタビューでも、2023年にモットーを聞かれた時にも、2026年のネーションズリーグの選手紹介でも、同じ言葉を挙げました。
2022年のインタビューでは、主人公が自分の信じるものを自分の意思で選ぶ姿を見て、これからの人生を変えていくのはこの言葉だと思ったと話しています。海外挑戦も、この言葉に勇気をもらったからできたそうです。
高橋藍の名言80選
高橋藍の名言には、「成長」と「最後の1点」がくり返し出てきます。高校生の頃に緊張で苦しんだことも、イタリアで言葉が通じなかったことも、パリで最後の1点を取れなかったことも、本人がインタビューで率直に話しています。関西弁や笑いが混ざるのも、この人の言葉の魅力です。
緊張と自信についての名言
エースを任された高校2年の高橋藍は、得点を決められず悩んでいました。その悩みをどう抜けたかが、今の前向きな言葉の出発点です。
01「自分に自信がなくて、めちゃめちゃ緊張しいで、試合前にオエッとなるほどでした。」
— 2022年10月のインタビューで、高校2年の頃までを振り返って
02「でも悩んだ末に、『世界の中で考えたら、俺のこんな緊張なんかちっぽけやな』と思ったんです。そうしたらスッとラクになった。それから何でもポジティブに考えるようになりました」
— 2022年10月のインタビューで、高校2年の頃を振り返って
03「試合でうまくいかなければ、また練習すればいい。そうすれば、次の試合で成長したプレーを見せることができる。」
— 2024-25シーズンのインタビューで、高校時代を振り返って
04「いいプレッシャーは、自分がレベルアップするために必要な要素だと捉えています」
— 2022年10月のインタビューで
05「だから注目されること、期待されることでプレッシャーを感じることはありません。逆にそれはうれしいことで、素直に応えたいなというか、それ以上の結果を出していきたいと思います」
— 2025年7月のインタビューで、メディアに出る理由を語って
06「目標を口にして、その目標に対しての責任を持つことで逃げたくなった時や妥協したくなった時に目標を思い出して努力していくことが大事だと思います。」
— 2023年9月のインタビューで、夢をかなえる秘訣を聞かれて
07「それを乗り越えた先に強くなった自分がいたり、自信を持てる自分がいたりする」
— 2023年9月のインタビューで、悲しみを乗り越えた話を聞かれて
08「成功か失敗かは重要ではないんですよ。どんな経験でも、気持ちの持ち方次第ですべてが成長につながっていくのではないでしょうか」
— 2024-25シーズンのインタビューで、自信のつけ方を聞かれて
09「僕は常にいろんなことに挑戦していて、失敗してもそれが自分にとってはいい経験だと思っているので、若いときにいろいろ経験することって僕はすごく大事なことだと思っています。」
— 2024年5月のインタビューで、子どもたちへのメッセージとして
10「代表から休みがなくて疲労もあったので、体を休めてできる範囲でトレーニングをして復帰した時さらにレベルアップできるようにしようと1日でポジティブに切り替えた」
— 2024年4月のインタビューで、1月の左足首のけがについて
東京とパリ、2度の五輪についての名言
小学6年の卒業文集に夢として書いた東京五輪は、悔しさの残る大会になりました。パリのイタリア戦では、2023年に亡くなった東京五輪の代表セッター、藤井直伸さんの写真がベンチに置かれていました。
11「本当に夢は叶うんだ、と思いましたね」
— 2022年10月のインタビューで、東京五輪出場を振り返って
12「もっと自分に経験があれば、日本はメダルに届いたんじゃないか、という悔しさがすごくありました。」
— 2022年10月のインタビューで、東京五輪の後の気持ちを振り返って
13「凄く悔しさが残った。もっと海外の選手と戦った経験があればと思った。それがイタリアに行くきっかけになった。悔しさを埋めるにはイタリアに行くしかないと。人生が動いた大会になった」
— 2024年4月のインタビューで、東京五輪を振り返って
14「やっぱ悔しかったですね。ここで勝つために、僕は3年間やってきていたので。」
— 2024年8月5日、パリ五輪準々決勝のイタリア戦の後で
15「誰のせいとかじゃなくて、チーム全体で『いける』って感じた部分から、隙ができてしまった」
— 2024年8月5日、パリ五輪準々決勝のイタリア戦の後で
16「東京のときは、自分がまだまだチームを引っ張っていけなかったので、その悔しさはありましたけど、今回は最後の1点を取ることができなかったっていう悔しさがある。」
— 2024年8月5日、東京五輪と同じベスト8の結果について聞かれて
17「今回藤井さんにメダルを見せること、一緒に取ることはできなかったんですけど、でもまだまだこれから一緒に戦っていけるので、藤井さんとともに強くなった日本代表で、この舞台に戻ってきたいなと思います。」
— 2024年8月5日、イタリア戦の後で、亡くなった藤井直伸さんについて
18「チームを勝たせられる存在になって、戻ってきたいなっていうのがあります」
— 2024年8月5日、どんな選手になって五輪に戻りたいかを聞かれて
最後の1点とエースの責任についての名言
パリの後、高橋藍のインタビューには「1点」という言葉が何度も出てきます。2026年7月には、パリで敗れたイタリアを相手に、フルセットの14-12から自分のスパイクで試合を決めました。それでも翌月には、また1点の話をしています。
19「僕自身も必要だったなと思うのは、“最後の1点を取りきる力”。」
— 2024年9月、SVリーグ開幕前のインタビューで
20「やりきったなという感じ。SVリーグを勝つことが自分の責任であり、チームの目標でもあった」
— 2025年5月5日、SVリーグ決勝第2戦に勝って初代王者になった後で
21「しんどい場面で1点にこだわれた」
— 2025年5月5日、第1セットのセットポイントで決めたスパイクについて
22「最後チームを勝たせたかった。自分の力不足だし、未熟だと思った。悔しい思いだけが残った」
— 2026年5月17日、サントリーでの最後の試合になった決勝第3戦の後で
23「負けたからこそ、決勝で勝つために何が必要なのか、敗者だから学べるポイントだと思う」
— 2026年5月17日、決勝第3戦の後の会見で
24「しっかりとこの負けを自分たちが認めて、今の立ち位置であったり、今のポジションという部分を自分たちがしっかり認識することが大事ですし、トップチームに勝っていくためにも、全ていちからまずは鍛え直すことが必要。」
— 2025年9月、世界選手権の予選ラウンド敗退の後で
25「自分が決めきってこの試合を終わらせるマインドで。託してもらえて、最後決めきったことは自分の成長につながっていく」
— 2026年7月15日、ネーションズリーグのイタリア戦の後で
26「メダルが懸かった勝負で1点、大事なところを取れていない」
— 2026年8月2日、ネーションズリーグの3位決定戦に敗れて
27「メダルを五輪で取るチームはそこまで求めていかないといけないと僕は思っている。」
— 2026年9月8日、アジア選手権のオーストラリア戦の後で
28「もちろんプレッシャーもありましたけど、自分の中でこの舞台をまずは楽しんでやることを第一にやっていましたし、何が何でも最後の一点を取りきる。そこしか考えていなかった」
— 2026年9月13日、アジア選手権決勝でイランに勝った後で
29「ここは通過点。五輪のメダルに向けて成長していく」
— 2026年9月、アジア選手権で優勝しロス五輪の出場権を得て
30「時間はあるようでない。一日一日を無駄にしないで、最終的には自信を持って五輪に臨みたい」
— 2026年9月15日、ロス五輪までの2年について
31「最年少でキャプテンをやる大きなメリットがあって、それは色んな選手が自分に意見を言いやすいところです。」
— 2025年10月、サントリーの主将になったシーズンの初めに
イタリア挑戦とポーランド移籍についての名言
高橋藍がイタリアへ渡ったのは大学在学中の2021年12月です。1季目は、アタッカーとして勝負したいのに、守備専門のリベロで使われることもありました。
32「早い段階で海外を経験したい、というのはもちろんあります。」
— 2021年3月の記事で、大学1年を終える頃に
33「東京オリンピックが終わってからは、むしろ危機感じゃないですけど、早く挑戦したいという気持ちが抑えられなかったので、自分を通すことを決めたんです」
— 2023年3月、パドヴァでのインタビューで
34「もちろん人それぞれ、とらえ方は違うし、僕の選択をワガママだと見る人もいるかもしれないですけど、最終的には自分の意志、自分の気持ちがすべて。」
— 2023年3月、パドヴァでのインタビューで
35「でも、実際に挑戦してみなければ世界までの距離は測れない。その壁を乗り越える過程で大きく成長できると信じていました」
— 2024-25シーズンのインタビューで、イタリアのリーグ、セリエAへ挑戦した決断を振り返って
36「正直、その時点ではゼロではなくマイナスからの始まりでした。」
— 2023年3月のインタビューで、イタリア1季目の12月を振り返って
37「でも、そんな状況の中でセリエAでのシーズンを過ごすことができた達成感は、間違いなく自分の人生にとってすごくいい経験になる、と思って耐えました。海外リーグでプレーする厳しさを知るだけでも世界が広がり、大きな財産になるだろうと。」
— 2023年1月のインタビューで、コロナ禍のイタリア1季目の寂しさを聞かれて
38「最初は驚いたけど、ひとつのプレーに対してお互いの意見を言うことで信頼関係を築ける。その姿勢は大切だなと感じています。」
— パドヴァでの2シーズンの後のインタビューで、イタリアの選手との違いを聞かれて
39「新しい環境、チームがまた僕を強くします。」
— 2023年6月1日、モンツァへの移籍を発表したコメントで
40「そういったすごい選手たちと常に対戦していくので、名前負けしなくなったというか、もう恐れなくなりました。」
— 2024年5月のインタビューで、イタリアに行ってみての変化を語って
41「この挑戦を選んだ一番の理由は、日本代表としてオリンピックで金メダルを獲るという目標を達成するためです。」
— 2026年5月29日、ポーランドのルブリンへの移籍を発表したコメントで
42「常に新たな環境を求めることが自分自身の成長につながる。チームに欠かせない存在になりたいけど、どういった結果になっても自分の力ですから。」
— 2026年9月22日、ポーランドへ出発する前に
英語と言葉の壁についての名言
高橋藍は、イタリアへ渡った時に英語もイタリア語も話せませんでした。語学が苦手でも海外に行けるのかと不安な人には、心強い話です。
43「やっぱり最初は言葉が話せなかったことですね。例えばディナーやパーティーに行くにしても、話(言葉)がわからないから、楽しくないし、相手にも気を遣わせてしまう。」
— 2024年5月のインタビューで、イタリアで苦労したことを聞かれて
44「でも赤ん坊のようなところからスタートして、一日一日、その日言えなかったことを調べたり、よく聞く単語をインプットしながら、少しずつ伝えられるようになって、自信がつきました。」
— 2022年11月のインタビューで、イタリア1年目を振り返って
45「何かあっても、『全然なんとかなるわ』と余裕を持てるようになりましたね」
— 2022年11月のインタビューで、イタリア1年目を振り返って
46「例えば、イタリアに行ったころは英語が全然話せなかったのですが、文法やミスを気にせずにチームメイトに話しかけました。チームメイトも笑顔で応じてくれたことで、次第に自信がつき、チームメイトとも冗談も言える関係を築くことが出来ました。」
— 2025年2月のコメントで、自分の強みを聞かれて
47「僕も結構ノリがいいので、『面白い奴だな』と覚えてもらってさらに話すようになりました。」
— 2024年5月のインタビューで、イタリアのチームメイトとの関係を語って
レシーブについての名言
高橋藍のレシーブは、身長が高くなかった小学生の頃に始まります。兄の塁が打って高橋藍が拾うのが、当時の遊び方でした。パドヴァでは、この力を買われて守備専門のリベロも任されています。
48「相手のスパイクを読んでボーンと上げた時って、すごく気持ちが良くて。」
— 2023年6月のインタビューで、小学生の頃を振り返って
49「とにかく子供の頃から数多く(レシーブを)取ってきたので、体に染み付いているのかなと。」
— 2023年6月のインタビューで、レシーブ力の源を語って
50「レセプション(サーブレシーブ)で崩れることがあれば、自分がコートに入る意味はない」
— 2021年7月、東京五輪の頃の言葉
51「リベロで学べることもすごく多いですし、それだけ自分のレシーブ力が評価されているということ。」
— 2022年5月のインタビューで、パドヴァ終盤のリベロ起用について
52「でも、イタリアに来たからこそ受けられるサーブでもあるし、得られる経験でもあるので。えぐいサーブを受けられること自体が、自分には楽しいし貴重な機会です」
— 2023年3月、パドヴァでのインタビューで
53「ボールに対しての執着心です。仲間が必死に繋いでくれたボールを一本一本大切にして自分が決めてチームの得点につなげたいです。」
— 東京五輪の選手紹介で、注目してほしい点を聞かれて
石川祐希ら仲間と兄についての名言
高校生の高橋藍にとって、石川祐希は憧れでした。同じ日本代表のエースになってからは、超える相手であり、頼る相手でもあります。
54「いつかは石川祐希さんのような選手、石川さんを超えるような選手になって、自分も日本代表としてプレーしたい。」
— 2020年1月、春高で優勝した後に
55「その時には『石川選手はどんな選手か。どんな練習をしていたのか』と根掘り葉掘り聞いてしまいました(笑)。」
— 2021年11月のインタビューで、高校時代を振り返って
56「目標……目標というか、選手として尊敬しています。その上で、『石川選手を超えたい』『違う選手になりたい』という思いもあります。」
— 2023年1月のインタビューで、石川は今でも目標かと聞かれて
57「石川選手だけに責任を押し付けるのではなく、他の選手もチームを引っ張っていくことが重要。主将に頼りすぎるのではなく、一緒にチームをつくっていける選手になりたい」
— 2026年9月、アジア選手権の決勝の後のインタビューで
58「臣さんが弱音吐く姿を見たことないですし、我慢して臣さんが今の日本代表を間違いなく支えてくれている。自分自身は何が何でも、そのトスを決め切る、そういう気持ちで常にいました」
— 2026年9月13日、アジア選手権決勝の後で、セッターの深津英臣について
59「でもやっぱり僕にとってのナンバーワンは健斗やし、身長のことがウィークポイントにされるのかもしれないけれど、健斗は世界でも十分通用する選手だと改めて思いました」
— 2023年3月、パドヴァでのインタビューで、東山の同期のセッター中島健斗について
60「自分たちでネットを作って、塁がスパイクを打って、自分はひたすらレシーブをしていました(笑)」
— 2023年6月のインタビューで、兄の塁と遊んだ子どもの頃を振り返って
石川祐希やほかのバレー選手の言葉は、バレーボールの名言20選で読めます。
「ひき肉です」「最高でーす」など面白い名言
高橋藍は、試合後のインタビューで会場を笑わせる選手でもあります。あの「ひき肉」にも、本人なりの理由がありました。
61「ひき肉でーーーーす!!!」
— 2023年10月6日、パリ五輪予選のセルビア戦の後の場内インタビューで
62「やっぱり盛り上がるというか、バレーボールが話題になる。今日はいい形で試合ができたので、会場を盛り上げるためにやらせていただきました」
— 2023年10月6日、セルビア戦の後で「ひき肉」の理由を語って
63「でも話題じゃないけど、そうやって印象に残っていることはいいことなのかな。次につながっていくかなと思います」
— 2023年10月14日、イタリアへ出発する前に
64「最高でーーーす!パリに向けて更なる成長を!!」
— 2023年10月7日、パリ五輪の出場権を得た後に、本人の Instagram で
65「サイコーでぇぇぇぇぇす!」
— 2026年9月13日、ロス五輪の出場権を得たアジア選手権決勝の後で
66「実は、ポケモンカードにつられてバレーを始めたんです(笑)」
— 2024-25シーズンのインタビューで
67「足首の状態がよくなかったときに。祐希さん、マメなんですよ。」
— 2026年1月、石川祐希との対談で
バレーの人気と夢についての名言
高橋藍がテレビや雑誌に出るのには、理由があります。バレーを夢のあるスポーツにしたいからです。
68「バレー界をもっと盛り上げたい、バレーをやりたいと思える子どもたちを増やしていきたいと思っています。」
— 2025年7月のインタビューで
69「バレーボール選手としてではなく、一人のアスリートとして、唯一無二の存在になりたいですね。」
— 2024-25シーズンのインタビューで
70「常に高い目標をもち、どんどん夢を言葉に出して、思い切って楽しんでほしい」
— 2026年9月15日の会見で、子どもたちへのメッセージを聞かれて
71「やっぱりバレーボール選手としての実績、結果があって、自分の価値は生まれると思っています。だから、世界一の選手になりたいです。」
— 2025年7月のインタビューで、コート外の活動の話の後に
72「世界のトッププレーヤーの一人として日本の高橋藍という選手がいること、面白いバレーボールをする今までにいない新しい選手だということを見せつけられればいい」
— 2024年4月のインタビューで、パリ五輪で目指すものを語って
73「いつかはフィギュアスケートの羽生結弦選手のように、誰もが知っているトップアスリートになりたいですね。」
— 2021年3月の記事で、東京五輪を前に
小学校から大学までの名言
高橋藍は小学生の時に21対0で負け、高校の1年と2年では春高に出られませんでした。その悔しさの先に、2020年1月の春高の優勝があります。
74「親からもいまだに『21対0で負けたこともあったよね』といじられることもあります(笑)でも、そういった経験をしているからこそ、どんな時もあきらめず、挑戦することができるのだと思います。」
— 2024-25シーズンのインタビューで、小学生の頃の惨敗を振り返って
75「京都に洛南がいるから、絶対洛南に勝ちたいと思って僕たちは強くなれました。」
— 2020年1月、春高で優勝した後に
76「誰もがあの場面で僕に上がってくるとわかっていたし、僕も自分に上げてくれ、と思って(攻撃に)入りました」
— 2020年1月、春高決勝の最後の1点について
77「苦しい場面で決めきるのが自分の仕事。今までで最高のバレーを出せた」
— 2020年1月12日、春高決勝の後で
78「将来はオリンピックに出てメダルを取りたい」
— 2020年1月12日、春高で優勝した後に
79「誰に勝つ、どのチームに勝つではなく、自分自身がどれだけ成長できるか。」
— 2021年3月の記事で、日本体育大学1年の時の全日本インカレ決勝に敗れて
80「僕は大学で日本一になることはもちろん、日本代表や世界で活躍する選手になることが目標なので妥協はしたくない。」
— 2021年3月の記事で、日本代表を経験した後に
よくある質問(Q&A)
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