1. Home
  2. >
  3. スポーツ
  4. >
  5. 野球
  6. >
  7. 松坂大輔の名言40選!平成の怪物の語録、自信が確信に変わったイチロー戦も解説
松坂大輔の名言40選!平成の怪物の語録、自信が確信に変わったイチロー戦も解説

松坂大輔の名言40選!平成の怪物の語録、自信が確信に変わったイチロー戦も解説

1999年5月16日、イチローから3打席続けて三振を奪った松坂大輔の名言が「今日で自信が確信に変わった」。横浜高校の甲子園からメジャー、2026年の恩師への言葉まで、松坂大輔の名言40選を、いつ・どの場面の言葉かと一緒に読めます。

2026.10.20 | 野球

Writer

writer avatar

公式ライター
Activel編集部

1998年8月22日、夏の甲子園の決勝をノーヒットノーランで締めくくり、春夏連覇を決めた横浜高校の松坂大輔が、試合の後に口にしたのは「早く帰って、家の布団で寝たいです」の一言でした。流行語になった名言「リベンジ」から恩師への言葉まで、平成の怪物・松坂大輔の名言40選を、いつ・どの場面の言葉かと一緒に古い順に載せています。

松坂大輔のプロフィール

高卒1年目から3年続けて最多勝を取り、メジャーではワールドシリーズを制した松坂大輔ですが、引退会見では23年のプロ生活を「半分以上は故障との戦いだった」と振り返りました。同じ会見では「一番良い思いとどん底も同じくらい経験した選手っていうのはいないかもしれないですね」とも話していて、名言や語録はその両方の時期から生まれています。

基本プロフィールと歩み

中学3年の夏休みに入るころまで、ユニホームが好きだった帝京高校に行くつもりだった松坂大輔が、実際に進んだのは神奈川の横浜高校でした。

項目 内容
生年月日 1980年9月13日
出身地 東京都
身長・体重 182cm・92kg
投打 右投右打
出身校 横浜高校
プロ入り 1998年ドラフト1位(西武)
通算成績 日米通算170勝
今の仕事 報道ステーションのスポーツコメンテーター

高校時代の最後の1年は、選抜と夏の甲子園、秋の国体まで負けなしで勝ち抜きました。プロでは日本で114勝、メジャーで56勝を挙げました。下の年表の WBC は、野球の国と地域の代表が戦うワールド・ベースボール・クラシックで、MVP は大会の最優秀選手のことです。

年 所属 できごと
1998年 横浜高校 甲子園で春夏連覇
1999年 西武 16勝で最多勝・新人王
2006年 西武 第1回 WBC で MVP
2007年 レッドソックス ワールドシリーズ優勝
2009年 レッドソックス 第2回 WBC で MVP
2011年 レッドソックス 右ひじの手術
2013年 メッツ マイナーを経て8月に契約
2015年 ソフトバンク 日本球界に復帰
2018年 中日 カムバック賞
2020年 西武 14年ぶりに古巣へ
2021年 西武 10月19日に引退登板
2022年 — スポーツキャスターに

手術と復活をくり返したソフトバンクの3年間は、1軍で投げたのが1試合だけでした。そこから中日に移った2018年、日本では12年ぶりの勝利を挙げています。

平成の怪物と呼ばれた理由

「平成の怪物」は、1998年に横浜高校で甲子園の春夏連覇を果たし、夏の決勝をノーヒットノーランで締めくくった松坂大輔に付いた異名です。前に「怪物」と呼ばれた投手は江川卓さんで、松坂大輔は元号の付いたこの呼び名をずっと背負ってきました。

誰が最初に呼び始めたのかは、はっきりしていません。本人も2018年3月のインタビューで「誰が言い出したんですかね。調べたら分かるんですかね(笑)。」と笑い、最初は気に入っていなかったと明かしています。それでも平成の終わりが近づいたこの時には、「元号が付く人って多分そんなにいないと思うので、そういう意味ではすごく光栄なことだったんだなって思いますね。」と話していました。

座右の銘

松坂大輔の座右の銘は、横浜高校の渡辺元智監督から教わった「目標がその日その日を支配する」です。2026年8月18日、亡くなったばかりの渡辺さんへの思いを語った時に、「自分の座右の銘である『目標がその日その日を支配する』。」と言い、同じ山を登るのでも日本一の富士山を目指すかどうかで一歩の覚悟が違う、という意味だと説明しています。メッツと契約した2013年には、本人の X(当時の Twitter)のプロフィール欄にも「目標がその日その日を支配する…。」と書いていました。

2021年12月の引退セレモニーでは、もう1つ大切にしてきた言葉として「ワンフォアオール、一人は皆のために、僕はこの言葉を胸に刻み投げ続けてきました。」と語りました。

松坂大輔の名言40選

17歳の春、選抜の決勝で最後の打者を三振に取った松坂大輔は「最後は三振を狙ってました」と話し、46歳になった2026年9月には、プロからメジャーへ進んだ自分の道を「今だったらもっと悩んだんじゃないですかね」と振り返っています。その間の28年の語録が、時期の古い順に続きます。

横浜高校・甲子園の名言

高校時代の松坂大輔は、2年の夏に神奈川大会の準決勝で、自分の暴投でサヨナラ負けをしています。その悔しさを抱えて迎えた3年の1998年、横浜高校は秋から負けなしのまま選抜と夏の甲子園を続けて制しました。

01「最後は三振を狙ってました」

— 1998年4月8日、選抜の決勝で関大一を完封した後

この名言の背景を詳しく読む

発言時期: 1998年4月8日(第70回選抜高校野球大会の決勝)

発言状況: 最後の打者を追い込み、この大会の初戦から数えて617球目の内角高めの速球で空振り三振に取って、関大一を3対0で完封した直後の言葉です。甲子園に入ってから腰痛に悩まされ、この試合の三振は7個だけでした。「この球威では三振は無理」と打たせて取る投球に切り替えての完封で、「悪いなりに完封できた点は、自分の成長を感じます」とも話しています。

02「あのつらさを思えば、どんなピンチでも動揺しなくなった」

— 1998年4月8日、選抜で優勝した後に、前の年の夏の負けを振り返って

この名言の背景を詳しく読む

発言時期: 1998年4月8日(選抜の決勝の後)

発言状況: 前の年の夏、2年生の松坂大輔は神奈川大会の準決勝で、ピンチを力で抑えようとして自分の暴投でサヨナラ負けをしました。その後は練習への向き合い方が変わり、冬にはほかの投手の3倍走り込んでいます。2026年8月には、渡辺元智監督の「栄光より挫折、成功より失敗、勝利より敗北から学びなさい」という言葉を、この負けで身をもって知り、翌年の春夏連覇につなげたと振り返りました。

03「春の選抜で優勝してから、ずっとこの日を目標に、苦しい練習にも耐えてきた。きょうはもちろん完封を狙います」

— 1998年8月22日、夏の甲子園の決勝の朝

04「早く帰って、家の布団で寝たいです」

— 1998年8月22日、夏の甲子園の決勝でノーヒットノーランを達成した後

この名言の背景を詳しく読む

発言時期: 1998年8月22日(第80回全国高校野球選手権記念大会の決勝)

発言状況: 京都成章との決勝を3対0のノーヒットノーランで締めくくり、横浜高校の春夏連覇を決めた後、ユニホームを脱いで笑いながら話した言葉です。2日前の準々決勝では PL 学園と延長17回を戦い、前の日には明徳義塾との準決勝を勝ち抜いての決勝でした。この日、今後の夢を聞かれると「まだ決めていない。国体が終わってから監督と相談します」と答えています。

05「(意中の球団は)横浜だったんですが……」

— 1998年11月20日、ドラフト会議で西武が交渉権を得た直後の会見で

この名言の背景を詳しく読む

発言時期: 1998年11月20日(ドラフト会議の日)

発言状況: ドラフトの前に「意中の球団以外なら社会人へ行きます。在京セ・リーグの一つを希望します」と話し、球団の名前ははっきり出さずに横浜ベイスターズへの入団を望んでいました。交渉権を得たのは西武で、東尾修監督がガッツポーズをした瞬間、困ったような笑いを浮かべた松坂大輔は「外れたな、という感じですね」「そう甘くなかった」と続けています。12月に東尾監督と会って話を聞き、西武に入ることを決めました。

06「プロ入りしたら、息の長い投手になりたい」

— 1998年12月、西武との入団交渉のころ

07「一番、対戦したいのはイチローさんです」

— 1998年12月、西武への入団を決めた時

ほかの神奈川の強豪と比べた横浜高校の強さは、神奈川県の野球の強豪高校ランキングで読めます。

西武時代の名言(自信が確信に変わったイチロー戦ほか)

1999年4月7日のデビュー戦で、松坂大輔は日本ハムの片岡篤史から最速155キロの直球で空振り三振を奪い、初勝利を挙げました。1年目に16勝を挙げた年は、ロッテの黒木知宏投手に負けた後の「リベンジ」が流行語になり、イチローを3打席続けて三振に取った日の「自信が確信に変わった」が名言として残っています。2006年11月には、入札で一番高い金額を出したメジャーの球団が交渉する権利を得るポスティングという仕組みで、レッドソックスへの移籍が決まりました。

08「自分は本番に強いと思っているんで」

— 1999年4月7日、プロ初登板の日本ハム戦で初勝利を挙げた後

この名言の背景を詳しく読む

発言時期: 1999年4月7日(東京ドームの日本ハム戦)

発言状況: 初回2アウトから片岡篤史を、この日最速の155キロで空振り三振に取ったデビュー戦は、8回132球を投げて2失点、9奪三振で勝ちました。試合後の第一声は「シュート回転したボールを打たれた。次回への反省点ですね」で、18歳のルーキーは集まった報道陣を前に、この言葉を言い切っています。

09「次の試合でリベンジします」

— 1999年4月21日、ロッテ戦で黒木知宏投手に投げ負けた後

この名言の背景を詳しく読む

発言時期: 1999年4月21日(千葉マリンスタジアムのロッテ戦)

発言状況: ロッテの黒木知宏投手と投げ合い、7回を2失点に抑えながら負けた試合の後の言葉です。この一言は、投げ合った黒木投手がのちに振り返った話の中に残っている言い回しです。6日後の4月27日、黒木投手との再戦で3安打10三振のプロ初完封を挙げ、1対0で雪辱しました。この年の新語・流行語大賞では「リベンジ」が年間大賞に選ばれ、受賞したのは松坂大輔でした。2018年には「多分僕が格闘技とかを見るのが好きだったので」出てきた言葉だと振り返っています。

出典: 新語・流行語大賞 第16回 1999年

10「今まで自信が持てなかった。でも、今日で自信が確信に変わった」

— 1999年5月16日、イチローとの初対戦で3打席続けて三振を奪った後

この名言の背景を詳しく読む

発言時期: 1999年5月16日(西武ドームのオリックス戦)

発言状況: 入団の時に一番対戦したいと名前を挙げたイチローを3打数3三振に抑え、8回13奪三振で3勝目を挙げた試合の後の言葉です。お立ち台の言葉は記事によって少しずつ違う形で残っていて、「これまでは何か自信がなかったけど、自信が確信に変わってきました」という形もあります。今はもっと短い「自信が確信に変わりました」で覚えている人が多い言葉です。2018年のインタビューでは「何か、ふと『確信』という言葉に強くひかれたというか。」と、前もって考えた言葉ではなかったことを明かしました。

11「シーズン前に僕が10勝できないと思っていた人に『どうだ』って見返すことができました。これが第1段階。第2段階は1つずつ白星を増やすこと。」

— 1999年7月31日、ロッテ戦で10勝目を挙げた後

この名言の背景を詳しく読む

発言時期: 1999年7月31日(西武ドームのロッテ戦)

発言状況: ロッテに4対1で勝って10勝目を挙げた試合の後、お立ち台からベンチ裏に戻って話した言葉です。高卒新人の2ケタ勝利は、1967年の江夏豊以来32年ぶりでした。「どうだ」の後には「これが第1段階」と、すぐ次の目標まで話しています。

12「とにかくイチローさんに対してだけ、目いっぱい投げました。ほかの人にも力を入れているんですけど、イチローさんだと、それ以上の力を出そうとしてしまうので……。」

— 1999年のオフ、イチローとの対談で初対戦を振り返って

この名言の背景を詳しく読む

発言時期: 1999年のシーズンが終わった後(2000年1月の雑誌に載った対談)

発言状況: イチローとの対談で、5万人が入った西武ドームでの初対戦を振り返った言葉です。第1打席で三振を取った瞬間について、「いつもの僕だったら、ガッツポーズが出たかもしれない。だけど、このときは冷静で『これからもまだ(対戦は)あるんだ』と思い、ガッツポーズは出なかったですね」と話し、その後に続けたのがこの言葉です。

13「ただプレッシャーがあるからこそ、逆にやってやろうという気にもなる。」

— 2006年11月、ポスティングでレッドソックスの落札が決まった日の成田空港の会見で

この名言の背景を詳しく読む

発言時期: 2006年11月(レッドソックスの落札が発表された日)

発言状況: レッドソックスが松坂大輔の交渉権を約60億円(5111万1111ドル11セント)で落札したと発表された日、渡米の前に成田空港で開いた会見の言葉です。「最高入札額は20億円前後だと思っていました。60億円は想像よりはるかに上でした」と驚き、「それだけ期待されているかと思うと、うれしい反面、プレッシャーもあります」と話した後に、この言葉を続けました。

14「一番、対戦したいのは、やっぱりイチローさんですね」

— 2006年11月、同じ成田空港の会見で

メジャー挑戦から引退後までの名言

レッドソックスに入った2007年にワールドシリーズを制した松坂大輔は、2011年に右ひじの手術を受けてから、けがと手術、復活をくり返しました。ソフトバンク、中日、古巣の西武と渡り歩いた最後の年、2021年の春に、ブルペンで右打者の頭の方へとんでもなく抜けた1球をきっかけに投げることが怖くなり、引退を決めました。今はテレビで野球を伝えていて、引退後の語録には、2026年8月に亡くなった恩師・渡辺元智さんへの言葉もあります。

15「かなわないのが夢。僕はずっと、ここで投げられることを信じて、目標にしてやってきた。だから今、ここにいるのだと思います」

— 2006年12月14日、レッドソックスの入団会見で

この名言の背景を詳しく読む

発言時期: 2006年12月14日(ボストンのフェンウェイ・パークで開かれた入団会見)

発言状況: 米国の記者から「夢が実現した感想は」と聞かれた時の答えです。メジャーは夢ではなく、目標にしてたどり着いた場所だと言い切りました。夢という言葉を嫌う松坂大輔は、この会見で「見ることは出来ても、叶わないのが夢だから」とも語りました。

16「注目されているのは分かっている。ファンになってくれるかは僕次第」

— 2006年12月14日、同じ入団会見で

17「苦しみが大きいぶん、よろこびはそれ以上のものになるとおもってましたし、じっさいそうだった。」

— 2008年2月、メジャー1年目を振り返ったインタビューで

この名言の背景を詳しく読む

発言時期: 2008年2月初め(2年目のキャンプに向けて家族で米国に渡る直前の雑誌のインタビュー)

発言状況: 1年目の2007年を振り返り、「想像していた通り、そうかんたんにはいかない場所でしたが、それこそじぶんが求めていたものだとおもって、すごくうれしかったですね」と話した後の言葉です。続けて「最後の最後、ワールド・シリーズで優勝できて感じました。まだ1年ですけど、行ってよかった、とおもえてます」と続けました。レッドソックスは2007年10月28日にワールドシリーズを制しました。

18「やっぱり、早いうちから明確な目標をもって、そこに向かってなにをするべきかということをかんがえながら、ふだんから生活したほうがいいとおもいます。」

— 2008年2月、同じインタビューで、今野球をしている子どもたちへ

19「気を遣われるのがイヤなんです。本当に病人(ケガ人)になってしまう気がするから。」

— 2009年のオフ、けがを隠して WBC に出た理由を聞かれて

この名言の背景を詳しく読む

発言時期: 2009年のシーズンが終わった後(2010年1月に雑誌に載ったインタビュー)

発言状況: 2009年1月に右足の内転筋を痛めたことを、球団にもトレーナーにも妻にも隠したまま、3月の第2回 WBC に出ていました。その理由を聞かれ、「弱みは見せねぇ、みたいな(笑)。言い訳がましくとられるぐらいだったら、批判されたほうがマシだと思ってました」と話した後の言葉です。この大会で日本は連覇し、松坂大輔は2大会続けて MVP に選ばれています。

20「僕には若い時から貫いてきたこだわりがある。それは曲げられないですね。曲げてしまったら、気持ちがダメになってしまう気がします」

— 2010年のオフ、制球がよくなるフォームを勧められても断った理由を聞かれて

この名言の背景を詳しく読む

発言時期: 2010年のシーズンが終わった後(2011年1月に雑誌に載ったインタビュー)

発言状況: 9勝6敗に終わったメジャー4年目のオフの言葉です。「コントロールが安定する投げ方はいくらでもあるんです。こいつバカかと思われるかもしれませんけど、コーチに『制球が良くなるフォームがある』と提案された時も断りました」と話し、その理由として続けたのがこの言葉でした。

21「心の中で思い描く、投球フォームがあります。今年は足、今年は腕、今年は背中と、僕はプロ入り後、12年くらいかけてフォームをステップアップさせています。」

— 2010年のオフ、同じインタビューで

22「このユニフォームを着てプレイするからには、求められるものはひとつですから」

— 2012年6月、右ひじの手術から戻った年に遠征先のシアトルで

23「諦めない。ただそれだけ…。」

— 2013年8月、メッツと契約する直前の本人の X(当時の Twitter)の投稿

24「昔よりも速いボールを投げるのは難しい。だけど、見に来てよかったと思ってもらえるものは出せると思います」

— 2014年12月5日、ソフトバンクの入団会見で

25「いくら言葉にしても足りないくらいの感謝の想いを伝えるのは1軍のマウンドだと思っています。」

— 2017年11月5日、3年間で1軍の登板が1試合だったソフトバンクを退団した時に

26「周りにどう見られようが、どう言われようが、自分ではまだやりきった悔いのない野球人生だったとは思えないので、そう思えるまでは自分を信じて進んで行きたい。」

— 2018年1月23日、中日の入団テストに合格した日に

この名言の背景を詳しく読む

発言時期: 2018年1月23日(ナゴヤ球場の室内練習場で行われた入団テストの日)

発言状況: ソフトバンクを退団した後、非公開の入団テストに合格して中日入りが決まった日に、球団を通じて出したコメントです。同じ年の5月には、ソフトバンクの最後の年を「出口が見えず悩みました。でも、ここで終わったら後悔すると思ったので、誰に何を言われようが続けようという気持ちでした」と打ち明けました。この年は6勝を挙げ、カムバック賞に選ばれました。

27「メチャクチャうれしかった。あまり喜びを爆発させるのもどうかなと思ったけど、あまりにも間が空きすぎて抑えられなかった」

— 2018年4月30日、中日で日本では12年ぶりの勝利を挙げた後

この名言の背景を詳しく読む

発言時期: 2018年4月30日(ナゴヤドームの DeNA 戦)

発言状況: 6回を3安打1失点に抑えて3対1で勝ち、日本の球界での勝利は4241日ぶりでした。ナゴヤドームの観客について「最後の力を与えてくれた」と話し、「プロ野球選手としてしっかり結果を残していかないといけない気持ちの方が今は強い」とも続けています。

28「周りは無理だと言う人が多いとは思いますけど、自分から諦める気持ちはない」

— 2019年12月11日、14年ぶりに西武へ戻った入団会見で、日米通算200勝について

29「諦めの悪さを褒めてやりたいですね。」

— 2021年10月19日、引退会見で、自分を褒めたいところを聞かれて

この名言の背景を詳しく読む

発言時期: 2021年10月19日(メットライフドームでの引退会見。この日の日本ハム戦で引退登板)

発言状況: 「選手生活の後半は叩かれることのほうが多かったですけど、それでも諦めずにね」と言葉に詰まりながら続けた言葉です。引退を決めたのは、この年の春、ブルペンで右打者の頭の方へとんでもなくボールが抜けた1球がきっかけでした。「そのたった1球で僕自身がボールを投げることが怖くなってしまった」と話しています。

出典: パ・リーグ.com「平成の怪物・松坂大輔引退会見、一問一答」

30「最後まで諦めなければ報われるよ、勝てる、あの試合が諦めの悪さの原点ですね」

— 2021年10月19日、同じ引退会見で、延長17回を戦った1998年夏の PL 学園戦を挙げて

31「やっぱり最後は逃げない、立ち向かう、どんな状況もすべて受け入れる、どんな自分に不利な状況も跳ね返してやる」

— 2021年10月19日、同じ引退会見で、マウンドに上がる時に心がけたことを聞かれて

32「このマウンドに立てる自分はかっこいいと思ってましたね。」

— 2021年10月19日、同じ引退会見で、大舞台で力を出せない子どもたちへ

33「好きなまま終われて良かったです」

— 2021年10月19日、同じ引退会見で、今も野球が好きかを聞かれて

34「選手の時間は無限ではありません。悔いの残らないように、日々を過ごしてください。」

— 2021年12月4日、引退セレモニーのスピーチで、これからもプレーする選手たちへ

この名言の背景を詳しく読む

発言時期: 2021年12月4日(メットライフドームで開かれた西武のファン感謝イベントの引退セレモニー)

発言状況: 「紙を見ながら話してもいいですか」と断ってから読み上げたスピーチの言葉です。続けて「トレーニング、体のメンテナンスには、十分、お金をかけてあげてください」と、けがに苦しんだ自分の経験から後輩たちに伝えました。同じスピーチでは「その悔しい経験をバネに僕は挑戦してきました」とも話しています。

35「イチローさんという大きな背中を追いかけ続けることができたことで、ここまでやってこれたと思うので、イチローさんには言葉では表しきれないくらい感謝しています」

— 2021年12月4日、引退セレモニーにイチローさんが花束を持って現れた後で

この名言の背景を詳しく読む

発言時期: 2021年12月4日(引退セレモニーの後)

発言状況: グラウンドを一周して戻ろうとした時、球場の大きな画面にイチローさんのビデオメッセージ「許せ、大輔」が流れ、本人が花束を持って現れました。「一気に我慢していた涙が出てしまいました」と話し、イチローさんからかけられた言葉は「それは言えないですよ」と明かさなかったうえで、「お疲れ様でしたということと、長い間よく頑張ったねと、その言葉を聞いた瞬間に一気に涙が出ました」と振り返っています。

引退を決めた理由や引退試合の最後の打者、イチローさんの「許せ、大輔」の意味は、松坂大輔の引退の記事で詳しく読めます。

36「これから起こるであろう『分からない』『初めて』を楽しみにしています。」

— 2022年1月、報道ステーションのスポーツキャスターに決まった時に

37「やっぱり時間帯です。朝一の試合だったら勝てる気がしないです。」

— 2026年2月、YouTube「渡部のサシ飲み」で、1998年の横浜高校と1985年の PL 学園が戦ったらと聞かれて

この名言の背景を詳しく読む

発言時期: 2026年2月28日に公開された動画

発言状況: 高校野球の史上最強のチームの話になり、清原和博さんの「俺が高校生だったら松坂は打てない」、桑田真澄さんの「キヨが打てなくても俺が打つ!」という答えを聞かされた後の言葉です。続けて「第2試合か第3試合だったら(85年・PL学園でも)僕は抑えられる」と話し、第1試合だったらと聞かれると「県大会だったらコールド負けです」と笑わせました。

38「生徒ではなくなりましたが、僕にとっては一生、監督さんです。」

— 2026年8月17日、恩師の渡辺元智さんが亡くなった日に、報道ステーションで読み上げられたコメント

39「監督さんと出会わなければ、自分はここにいない。」

— 2026年8月18日、亡くなった恩師に寄せたコメントで

この名言の背景を詳しく読む

発言時期: 2026年8月18日(夏の甲子園で横浜高校が準々決勝に勝ち、4強に入った日)

発言状況: 横浜高校を甲子園で5度の優勝に導いた渡辺元智さんは、前の日に81歳で亡くなりました。この日甲子園を訪れていた松坂大輔はコメントで、「人生の勝利者になれ」と口酸っぱく言われたことを明かし、「これからも『野球界への恩返し』を忘れずにやっていきたい」と結んでいます。同じ日の夜にはテレビに出て、1年生のころ監督室に呼ばれ、握力のトレーニングを兼ねて監督をマッサージしながら話した時間を振り返りました。最後は監督に「痛い」と言わせるほど握力がつき、3年の夏も最後まで投げ切れたと話しています。

40「今だったらもっと悩んだんじゃないですかね。そういう時代だと思うし、選択肢が増えていいと思う。」

— 2026年9月20日、横浜市のトークショーで、自分がプロからメジャーへ進んだ道を振り返って

この名言の背景を詳しく読む

発言時期: 2026年9月20日(横浜市内のトークショー)

発言状況: 横浜高校の後輩、織田翔希投手の進路を聞かれて「どの道に行っても織田くんの将来が楽しみでしかない」と話した後、自分の若いころを振り返った言葉です。自分は「日本のプロ野球で結果を出して自信をつけてからアメリカに行くっていう考えだった」と明かし、今の球児には「いろんな人にアドバイスを聞きながら自分で決めたらいい」と続けています。

ほかの野球選手が努力について語った名言は、野球選手のかっこいい努力の名言70選で読めます。

よくある質問(Q&A)

Q1. 「自信が確信に変わりました」は、いつ・誰との対戦の後の言葉?

1999年5月16日、西武ドームのオリックス戦でイチローと初めて対戦し、3打席続けて三振に取った後の言葉です。当日の記事は「今日で自信が確信に変わった」「自信が確信に変わってきました」など報道によって形が少しずつ違い、広く知られた「自信が確信に変わりました」はそれを短くした形です。

Q2. 松坂大輔が「平成の怪物」と呼ばれたのはなぜ?

高校時代の1998年に横浜高校で甲子園の春夏連覇を果たし、夏の決勝でノーヒットノーランを達成したからです。誰が最初に呼んだかは分かっておらず、本人も2018年に「誰が言い出したんですかね」と話しています。

Q3. 「リベンジ」はいつの言葉?

1999年4月21日、ロッテの黒木知宏投手に投げ負けた後の言葉です。6日後の再戦でプロ初完封を挙げて雪辱し、この年の新語・流行語大賞の年間大賞に選ばれました。

Q4. 松坂大輔とイチローの初対決の結果は?

1999年5月16日の初対決は、最初の3打席がすべて三振、4打席目は四球で、松坂大輔の勝ちでした。「自信が確信に変わりました」の名言が生まれたこの試合で、8回13奪三振の3勝目を挙げています。

Q5. 松坂大輔の座右の銘は?

横浜高校の渡辺元智監督から教わった「目標がその日その日を支配する」です。2026年8月に、自分の座右の銘だと話しています。

Q6. 引退会見では何と言った?

2021年10月19日の引退会見で、23年間を「半分以上は故障との戦いだった」と振り返り、自分の「諦めの悪さを褒めてやりたいですね」と話しました。会見でほかに語ったことは、松坂大輔の引退会見で語ったことで読めます。


商品やサービスを紹介いたします記事の内容は、必ずしもそれらの効能・効果を保証するものではございません。
商品やサービスのご購入・ご利用に関して、当メディア運営者は一切の責任を負いません。

Follow Us
公式SNS
x logo facebook logo youtube logo
Search
サイト内検索