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辰吉丈一郎の名言50選!「現役ですよ」と語る今の言葉や父の教え、人生の語録

辰吉丈一郎の名言50選!「現役ですよ」と語る今の言葉や父の教え、人生の語録

元WBC世界バンタム級王者のプロボクサー、辰吉丈一郎の名言50選。網膜剥離や薬師寺戦の敗戦の後もリングに戻り、50代の今も「現役ですよ」と語る言葉から、父・粂二さんの「負けを認めるな」の教えまで、辰吉丈一郎の名言を言った時期と場面とともに読めます。

2026.10.31 | 格闘技

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公式ライター
Activel編集部

1990年代にWBC世界バンタム級の王座に3度就いたプロボクサー、辰吉丈一郎は、網膜剥離や世界戦の3連敗で「辰吉は終わった」という声が聞こえてもリングへ戻り、50代になった今も「現役ですよ」と答え続けています。その根にあるのは、幼いころに父から言われた「負けを認めるな」です。世界王者のころから今まで、言葉が生まれた場面と一緒に、辰吉丈一郎の名言をたどっていきましょう。

辰吉丈一郎のプロフィール

辰吉丈一郎は岡山県倉敷市の児島で生まれ、中学を出てすぐ大阪帝拳ジムに入ったプロボクサーです。1991年、当時の国内最速となるプロ8戦目でWBC世界バンタム級のチャンピオンになりましたが、その直後から左目の網膜の病気が続きます。1993年に網膜剥離になり、当時のルールでは国内で試合ができなくなりましたが、海外で復帰します。薬師寺保栄さんとの統一戦を含む世界戦の3連敗を越えて、1997年に王座を取り戻しました。1999年に一度は引退を口にしたものの、2002年にリングへ戻りました。2009年のタイでの試合を最後にリングには上がっていませんが、引退は表明していません。

基本プロフィール

丈一郎という名前は、漫画『あしたのジョー』の単行本を全巻持っていた父・粂二さんが、主人公の矢吹丈から「丈」をとって付けました。「父ちゃんは粂二(くめじ)という自分の名前がいやで、息子にはカッコええ名前をつけたかったらしい」と、本人が2014年の新聞の連載で明かしています。1989年のプロデビューのころには、その名前と矢吹丈のイメージから、関西で「浪速のジョー」と呼ばれるようになりました。

項目 内容
生年月日 1970年5月15日
出身地 岡山県倉敷市(児島)
ジム 大阪帝拳ジム
構え 右構え
タイプ ボクサーファイター(離れても近づいても戦える型)
王座 WBC世界バンタム級(3度)
プロの戦績 28戦20勝(14KO)7敗1分け
アマの戦績 19戦18勝1敗
愛称 浪速のジョー
家族 妻・るみさん、息子2人

本人の著書には、言葉を集めた『魂の言葉』(2015年)や、自伝の『波瀾万丈』(1995年)など5冊があり、2016年にはドキュメンタリー映画『ジョーのあした -辰吉丈一郎との20年-』も公開されました。

生い立ちと父・粂二さんの教え

辰吉丈一郎の父・粂二さんは、ジーンズやズボンをアイロンで加工する仕事をしながら、ひとりで息子を育てました。母は辰吉さんが物心つく前に家を出ていて、本人は「うちは父子家庭で、父一人子一人の生活でした。家は貧乏でテレビも電話もなかった。」と振り返っています。父・粂二さんは辰吉さんに、次のような言葉をかけてきました。

  • 「勝つ勝たんとかの問題やない。とにかく負けを認めるな。負けたまま家に帰るな」(本人が2014年の新聞の連載で紹介した、5歳のころの父の言葉)
  • 「ジョー、泣いてもなんでもええから負けを認めるな」(本人の著書『魂の言葉』の冒頭にある父の言葉)
  • 「人がやっているのを指くわえて見ているだけ。そういう人間にはなるな」(本人が2021年の取材で紹介した、父に言われてきた言葉)

辰吉さんは毎晩、家の外につるしたサンドバッグを、父と一緒に殴る練習をしていました。ある日、いじめに来た子をその練習のとおりに殴ったら相手が倒れ、それからいじめられることはなくなったそうです。父との約束は「世界王者になったら引退」でしたが、辰吉さんは王座を取ってすぐ目の病気になりました。粂二さんは1999年1月、52歳で亡くなっています。今の辰吉さんの言葉にも、父・粂二さんの話は何度も出てきます。

世界王者から網膜剥離、50代の今も「現役」と語るまでの歩み

辰吉丈一郎の歩みは、世界王座を取っては目の病気や敗戦で失い、そのたびにリングへ戻ることの繰り返しでした。世界王座には、1991年、1993年(暫定王座)、1997年の3度就いています。

年 出来事
1986年 大阪帝拳ジムに入門
1989年 プロデビュー
1991年 8戦目で世界王座(リチャードソン戦)
1991年末 左目の網膜裂孔(網膜に穴があく病気)の手術
1992年 初防衛戦で負け、王座を失う
1993年 暫定王座(正式の王者とは別に、団体が仮に認める王座)を取った後、網膜剥離
1994年 ハワイで復帰、王者の薬師寺さんとの統一戦で判定負け
1996〜97年 一つ上の階級の王者サラゴサに2度負け、世界戦3連敗
1997年 シリモンコンに勝ち、王座に返り咲き
1998年 ウィラポンに負け、王座を失う
1999年 父が死去、再戦に負け引退を口にする
2000〜02年 テレビの『ガチンコ!ファイトクラブ』に登場
2002年 3年4カ月ぶりの試合に勝つ
2008年 年齢の決まり(37歳の定年。元世界王者は最後の試合から5年まで)で国内のライセンスが切れ、タイで試合
2009年 タイで負け、これが最後の試合
2016年 映画『ジョーのあした』公開
2026年 56歳。大阪帝拳の所属のまま

試合ができなくなってからも、辰吉さんは毎朝のロードワークとジムでの練習を続けてきました。2022年の取材では、体重は世界王者のころと同じ58キロで、食事は1日1回だと話しています。次男の寿以輝さんもプロボクサーになり、2015年のデビュー戦から、辰吉さんはリングサイドで息子の試合を見守っています。

座右の銘

辰吉丈一郎が座右の銘に近い言葉として何度も口にしてきたのは、父・粂二さんの「負けを認めるな」の教えです。2018年のインタビューでは、自分のボクシングについて「努力努力や、何万回もの反復練習から得られるものやと思う。」とも話しています。本人が「座右の銘」と名指しした言葉は本の紹介や取材の記事には見当たらず、名言のブログにある「終わり良ければ全て良し」も本人の言葉とは確かめられません。

辰吉丈一郎の名言50選

辰吉丈一郎の名言には、網膜剥離や敗戦のたびにリングへ戻った世界王者のころの言葉と、試合ができなくなった後も「現役」と言い続ける50代の今の言葉があります。どちらの時期の言葉にも、父・粂二さんの「負けを認めるな」の教えが顔を出します。人生や生き方を語った語録では、一度しかない人生を自分の好きに生きる、という考えがくり返し出てきます。

世界王者のころの名言(網膜剥離・薬師寺戦・シリモンコン戦)

辰吉丈一郎が世界王者になったのは1991年9月、21歳の時でした。網膜剥離、そして薬師寺保栄さんとの統一戦を含む世界戦の3連敗と、試合ができなくなりかけるたびに、辰吉さんは次の試合へ向かいます。ウィラポンとの再戦に負けた1999年の会見でも、口にしたのは「辰吉はまだ終わっていない」でした。

01「負けず嫌いでしたね。(ジムで)こんなやつらに負けてたまるかっちゅうのもあったし、ここで一番になったろうっていう考えもあった」

— 2022年のインタビューで、中学を出て大阪帝拳ジムに入ったころを振り返って

02「この敗戦があったから今の自分につながっている。今となっては黒星もいいと思いますよ。そう捉えましょう」

— 2019年7月のテレビ番組で、1987年11月のアマチュアでのただ一度の負けを振り返って

03「当時は日本人は世界戦で弱いと言われてた。(4戦目で)日本王座を獲って、見とけ、ワシがおる!ってよう言うてたんよ」

— 2020年5月、50歳の誕生日のインタビューで、1990年に4戦目で日本王座を取ったころを振り返って

04「もう、一生懸命でしたね。日本を背負うというか、偉そうなことは言えないんですけど、何か、国旗があがると、結構気合入りますね。ああ、そういう試合なんやなと」

— 2022年のインタビューで、1991年9月の初めての世界戦を振り返って

05「僕、父ちゃんが大好きなんですよね。僕の中では、父ちゃんの子でよかったというか、父ちゃんの子でチャンピオンになったんで、そういう思いやった」

— 2022年のインタビューで、1991年9月19日に世界王者になった日を振り返って

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発言時期: 2022年のインタビュー(振り返ったのは1991年9月19日)

発言状況: 守口市民体育館でグレグ・リチャードソン(アメリカ)に10回終了TKOで勝ち、WBC世界バンタム級のチャンピオンになった日のことです。プロ8戦目での世界王座は、具志堅用高さんたちの9戦目より早い、当時の国内最速でした。リングの上のインタビューで「お父さん、岡山で見ていますよ」と伝えられると、辰吉さんは親指を立てて「やったで!」と答えています。

06「やめたら(1月に生まれた)子供が悲しむやろな」

— 1992年9月17日、初めての防衛戦で9回TKO負けした後に

07「でも、俺はハンディとは思ってないよ。自分が行く道にたまたまアクシデントがあったというだけで、剥離になろうがなろうまいが自分のしたいことをするだけ。自分がこういう人間のままで終わったらあかんというプライドがあった」

— 2020年5月のインタビューで、1993年9月に網膜剥離になったことを振り返って

08「父ちゃんはチャンピオンになってやめさせたがってたからカムバックせいとは絶対に言わん。でも、やれるもんならはい上がってみいとは言うた。誰も何も言わんようになるって。それでカムバックを決めた」

— 2020年5月のインタビューで、目の病気で入院していたころを振り返って

09「おれのボクシング人生は終わりかもしれんけど、もう一回だけチャンピオンになりたい」

— 1993年秋、網膜剥離で入院していた病室から、妻のるみさんへの電話で

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発言時期: 1993年秋(網膜剥離の手術の後、入院していた時)

発言状況: 1993年9月、辰吉さんは左目の網膜剥離と分かり、11月に決まっていた王座統一戦は中止になりました。当時の国内のルールでは、網膜剥離になったボクサーは試合ができませんでした。病室から電話でこう切り出すと、妻のるみさんは「わがままや」と返しました。辰吉さんが「ボクシングやりたいねん」と続けると、るみさんは「あんたの人生やからあんたが決めてや。思ってきた道歩いて来たやないの」と答えています。辰吉さんは1994年7月、ハワイでの復帰戦に勝っています。

10「目のケガをした後も、あんまりボクシングは変わってない。なんやったら、もっと顔を前に突き出して、殴ってみろよみたいな。この目はどうなっても大丈夫だよとアピールしとったかな」

— 2022年のインタビューで、1994年の復帰の後の戦い方を振り返って

11「ボクが負けるなんて万が一もない。もし…、なんて言葉は凡人が言うこと」

— 1994年12月、薬師寺保栄さんとの王座統一戦の前に(2014年の新聞の連載で本人が振り返って)

12「確かに薬師寺さんは強かった。実は試合の1週間ほど前に左手甲を疲労骨折していた。でも、これを言い訳には絶対したくなかった。勝者にも悪いし、弱いから負けたという、ただそれだけや。」

— 2014年の新聞の連載で、1994年12月4日の薬師寺戦の判定負けを振り返って

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発言時期: 2014年3月の新聞の連載(振り返ったのは1994年12月4日の試合)

発言状況: 名古屋市総合体育館でのWBC世界バンタム級の王座統一戦は、王者の薬師寺さんと暫定王者の辰吉さんによる、日本人どうしで初めての統一戦でした。2人は試合の前から強気の言葉をぶつけ合っていました。判定は2-0で薬師寺さんの勝ちです。辰吉さんは試合の直後に薬師寺さんと抱き合い、控室へ引き揚げながら「完敗や。完敗や」とつぶやいていました。この試合は、負ければ引退という条件で国内での試合を許された一戦でしたが、本人は連載で、負けたままでは終われない気持ちが渦巻いていたとも振り返っています。

13「負けるのが怖い、という気持ちはあります。でも、痛いから怖い、ケガするから怖いという感情は僕には全くないです。死を恐れとるぐらいやったら、ボクシングは選ばないでしょ」

— 2022年のインタビューで、打たれても前に出た薬師寺戦のころの戦い方を聞かれて

14「僕はもしこうやったら、もしああやったらっていう考えは持たない人間なんです。みんな『もしも』ってよく言うけど、僕はそういうのんきなことを考える人間ではない。人生一回こっきりですし、一度しかない人生を、なんでそんなふうに考えんのやろ」

— 2022年のインタビューで、目の病気と世界戦の3連敗が続いた1990年代を振り返って

15「『辰吉は終わった』という声も聞こえた。ボクは次に勝てればいいと考えた。あきらめへん。チャンスは必ずくる。」

— 2014年の新聞の連載で、1997年4月に世界戦3連敗となった後を振り返って

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発言時期: 2014年3月の新聞の連載(振り返ったのは1997年4月の敗戦の後のこと)

発言状況: 薬師寺戦の後、辰吉さんは1996年3月と1997年4月に、一つ上の階級(スーパーバンタム級)の王者ダニエル・サラゴサ(メキシコ)に続けて負け、世界戦は3連敗になりました。次の相手は、16戦全勝で20歳の王者シリモンコン・ナコントンパークビュー(タイ)です。1997年11月22日の大阪城ホールで、辰吉さんは得意の左ボディーで2度目のダウンを奪って7回にTKOで勝ち、約3年ぶりに王座を取り戻しました。27歳でした。

16「リングに上がって、シリモンコンを見て『うわあ、デカッ』と2度見したほどやった。」

— 2014年の新聞の連載で、1997年11月22日のシリモンコン戦を振り返って

17「勝ってやめるのが理想だったが、ボロボロにされて第二の人生に行くのも僕らしい」

— 1999年8月30日、ウィラポンとの再戦に負けた翌日の会見で

18「ファンが帰らずに残っていてくれて、お礼を言いたかった。ありがとうの声が聞こえたが、それはこっちのせりふです」

— 1999年8月30日の会見で、試合の後なかなかリングを下りなかったわけを聞かれて

19「ボクシングという職業は終わったが、辰吉はまだ終わっていない。これからまたのし上がろうと思っている」

— 1999年8月30日、引退を口にした会見で

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発言時期: 1999年8月30日(ウィラポン戦の翌日の会見)

発言状況: 1998年12月、辰吉さんは3度目の防衛戦でウィラポン(タイ)にKOで負けて王座を失い、翌月の1999年1月には父・粂二さんを亡くしています。8月29日の大阪ドームでの再戦にも7回TKOで負け、試合の後に引退を口にしています。のちに本人は、このころも「腹の中では『まだやる』と思っていた」と振り返り、会見の後に腫れた顔のままロードワークに出たと話しました。2002年12月、辰吉さんは3年4カ月ぶりの試合でリングに戻り、6回TKOで勝っています。

「現役ですよ」と語り続ける今の名言

辰吉丈一郎は2009年3月のタイでの試合を最後に、リングに上がっていません。2008年に国内のライセンスが切れてからはタイで試合をしましたが、2009年の最後の試合の後、日本ボクシングコミッションはタイの団体にも、辰吉さんの試合を組まないよう求めました。それでも辰吉さんは取材のたびに「現役」だと答え、2023年にも一人で自転車に乗ってジムに通っていました。いつやめるかを聞かれると「自分が納得したら」「自分が決める」と返し、3度目の王座の返り咲きを今も目指しています。

20「ワシはまだ終わっとらん」

— 2009年3月8日、最後の一戦となったタイでの試合に負けた直後に(2014年の新聞の連載で振り返って)

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発言時期: 2009年3月8日(2014年3月の新聞の連載で振り返った)

発言状況: 2003年9月の試合の後、辰吉さんは5年間試合を組めず、2008年9月26日に、日本ボクシングコミッションの年齢の決まりで国内のライセンスが切れました。その翌月、タイで5年ぶりの試合に勝ち、2009年3月8日には、地元の19歳の選手に7回TKOで負けています。これが最後の試合です。その後、日本ボクシングコミッションはタイのボクシングの団体に、辰吉さんの試合を組まないよう求めました。本人は連載で、負けた直後にもこう言ったと話し、「その気持ちは今も変わっていない」と続けています。

21「人に『お前の職業は?』と聞かれたら、ボクは『プロボクサー』と答える。5月に44歳になるけど、ボクは現役のプロボクサーや。」

— 2014年3月、43歳の時の新聞の連載の書き出しで

22「僕は現役にこだわりがある。(引退については)そんなんなってみないとわからないですね。例えば、あなたはどうやって死にます? どうやって寝ます?」

— 2015年10月23日、東京国際映画祭での映画の舞台あいさつで、どんな時に引退するかを聞かれて

23「何でボクシングするかと言ったら、ごっこをやってるわけではない。僕も言うてもプロボクサーで、3回チャンピオンになってるんで、またベルトを取りに行こうってだけのことです。無理と言われれば燃えるのが辰吉君なんよ。」

— 2016年2月、映画の公開を前にしたインタビューで、目標は世界王者かを聞かれて

24「ファンもありがたいですけど、アンチもいないと面白くないでしょ。美味いもんばっかり食ってても、まずいものがわからなかったら、美味いっていう表現はおかしい。まずいものも食うから『美味いやーん』ってなるんでしょ。」

— 2016年2月、同じインタビューで、ファンもアンチも多いと言われて

25「俺はまだ引退してません」

— 2016年2月27日、映画『ジョーのあした』の公開初日の舞台あいさつで

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発言時期: 2016年2月27日(東京での初日の舞台あいさつ)

発言状況: 映画『ジョーのあした -辰吉丈一郎との20年-』は、阪本順治監督が1995年から2014年まで辰吉さんを撮り続けたドキュメンタリーで、関西で先に公開された後、この日に東京などでも公開されました。会場では、辰吉さんが「辰吉!辰吉!」のコールで迎えられています。2月10日に大阪で開かれた完成披露試写会でも「僕はまだ現役です。まだ残りあるので監督には続けんかいって言いたい。この映画は始まりや。」と話していました。

26「ボクシングしか知らんし、ボクシングが好きなんよ。これを取りあげられたらちょっと待ってくれってなる。結果的には自己満足の世界。いつまでとかどうなったらとかじゃなく自分が納得したら引退するよ」

— 2020年5月、50歳の誕生日のインタビューで、最後の試合から11年たってもベルトをあきらめないわけを聞かれて

27「父ちゃんと約束したのは王者になったら引退ってこと。でも、すぐ剥離になってしまった。だから、自分がこういう形で終わりたいという形で終わりたい。辰吉は、辰吉で終わらなあかんからね」

— 2020年5月、同じインタビューで、まだ納得できないわけを聞かれて

28「こういう型破りがおってもええやん。辰吉らしくていいと思うよ。人がどう言おうが思おうが、自分は自分。」

— 2021年5月、51歳の誕生日のあとの取材で

29「父ちゃんの影響というより、父ちゃんの子やからこうなったと思う。『人がやっているのを指くわえて見ているだけ。そういう人間にはなるな』と言われてきた。」

— 2021年5月、同じ取材で、父・粂二さんが亡くなった52歳に近づいてきたことを聞かれて

30「現役ですよ。自分はそこにプライドがある。世界チャンピオンになりたい。至って本気です。冗談だったら10年間もやらないし、真冬の朝に走れない。」

— 2022年1月、51歳の時のインタビューで、まだ現役かを聞かれて

31「無理かどうかは人が決めるんじゃなく、自分が決める。曲げるつもりはないし、中途半端にやめることが僕は耐えられへん。」

— 2022年1月、同じインタビューで、周りに「もう無理」と言われないかを聞かれて

32「ボクシングは職業やなく、趣味だから。仕事だとしたら何年間、無職かって(笑い)。」

— 2022年1月、同じインタビューで、今の収入を聞かれて

33「頂上はハッキリと見えている。最後の青写真は、自分がやりたいことをして優雅に死ぬ。どうせ人間、死ぬんです。だから後悔なく生きたい。そもそも人は生まれて来た時点で奇跡やから。」

— 2022年1月、同じインタビューの最後に、人生を山登りに例えると今どこにいるかを聞かれて

34「父ちゃんはまだお墓に入っていない。ボクがチャンピオンになるまでは家におってほしくてね」

— 2022年1月の取材で、1999年1月に亡くなった父・粂二さんのことを聞かれて

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発言時期: 2022年1月の取材

発言状況: 父・粂二さんは1999年1月、辰吉さんがウィラポンに負けて王座を失った翌月に、52歳で亡くなりました。遺骨は、この取材の時も自宅に置かれていました。その父と同じ52歳になった2022年5月15日の誕生日には、「やっと父ちゃんと肩を並べたかな。まあ、ワシは父ちゃんより長生きするで」と口にしました。

35「始まりがある以上、必ず終わりがある。いつやめるかは自分で決めます。ものには限度があるからね。(日本初となる)3度目の王座返り咲きをしたら終わりなんよ。それだけのこと」

— 2022年のインタビューで、死ぬまでボクサーでいるつもりかを聞かれて

36「毎日の努力が報われないとか考えたこともない。いつ来るか分からんチャンスってあるじゃないですか。それに備えているのも事実やし、ぐうたらしてる自分が許せんというのもある。しんどいな、休もうかなと思う日はあります。でも、ボクシング自体を嫌だと思ったことは一回もない」

— 2022年、同じインタビューで、試合ができないのに練習を続けるわけを聞かれて

37「心配せん親はおらんよ」

— 2023年8月6日、次男の寿以輝さんの2年9カ月ぶりの復帰戦を見届けた後に

人生と生き方を語った名言・語録

名言集のサイトに載る辰吉丈一郎の語録には、人生は一度きりだから自分の思うように生きる、自分で自分をあきらめない、という言葉が多く並びます。「やる、言うたらやるんや!」は、2015年に出た本人の著書『魂の言葉』の紹介に置かれた言葉です。ほかの言葉は、話した時と場面は分かっていませんが、いくつもの名言のサイトに辰吉さんの語録として載っています。

38「やる、言うたらやるんや!」

— 本人の著書『魂の言葉』(2015年)の紹介に置かれた言葉

39「次、生まれ変わったらこうしたいとか言う人がおるけど次はないよ。」

40「この世にたった一つの命や。とことん生きぬいたれ。」

41「自分の人生、色を塗るのは自分だけですからね。自分に惚れる自分を信じる。それしかないですわ。」

42「人はいつか必ず死を迎えるわけで。他人の目や評価を気にして生きても一生、自分の好きに生きても一生。だったら思いどおりに生きてみたい。」

43「目標があればたとえ遠くてもあきらめなければいつかはたどり着く。」

44「リング上の勝ち負けは審判が決めること。自分で自分をあきらめたときが本当の終わりだと思っている。あきらめなければチャンスは必ずやってくる。」

45「前にも進めない後ろに下がることもできないという状況は誰にでも起こる。そんなときはまずできることから手をつければいい。なにもできないということはまずありえない。」

46「笑って死ぬためには今を一生懸命生きるしかない。」

47「他人が何を言おうとそれでおまえの人生が最高やったらエエがな。」

48「99%だめ?1%あるやん。1%の希望があれば立っていられる。」

49「人間って本当に苦労している時は苦労なんて感じないのと違います?一生懸命やってたら夢中になってたら自分では気づかないものでしょう。苦労したと思っている人は本当は苦労してないんですよ。」

50「一度だけの人生、自分の道を自分の好きなように生きてみたい。転んだら起きればいい、失敗したら次に頑張ればいい。それがボクの生き方なんよ」

井上尚弥やモハメド・アリなど、ほかのボクサーの言葉はボクシング選手の名言にあります。

よくある質問(Q&A)

Q1. 辰吉丈一郎はガチンコ!ファイトクラブで何をしていた?番組での名言は?

2000年から2002年ごろ、TBSのテレビ番組『ガチンコ!ファイトクラブ』に、プロボクサーを目指す練習生のもとを訪ねる役で何度か登場しました。当時の番組の公式サイトにも、辰吉さんの登場で練習生の意気が上がったと紹介されています。番組で話したセリフについては、放送でそのとおりに言ったと確かめられる記録が見当たりません。

Q2. 辰吉丈一郎の父・粂二さんは、どんな教えを残した?

「勝つ勝たんとかの問題やない。とにかく負けを認めるな。負けたまま家に帰るな」という教えです。5歳のころに言われた言葉で、本人の著書『魂の言葉』の冒頭にも「ジョー、泣いてもなんでもええから負けを認めるな」と出てきます。粂二さんはひとりで辰吉さんを育て、1999年1月に52歳で世を去っています。

Q3. 「浪速のジョー」と呼ばれるのはなぜ?丈一郎という名前の由来は?

父・粂二さんが、漫画『あしたのジョー』の主人公・矢吹丈から「丈」をとって丈一郎と名付けました。1989年のプロデビューのころから、その名前と矢吹丈のイメージで「浪速のジョー」と呼ばれています。本人は岡山県の生まれで、2026年10月の取材では「浪速ではないけどね」と話しています。

Q4. 辰吉丈一郎は引退したの?今もボクサーなの?

1999年に一度は引退を口にしましたが、2002年にリングへ戻り、その後は引退を表明していません。最後の試合は2009年3月のタイでの試合で、国内のライセンスも2008年に切れていますが、取材には「現役ですよ」と答えています。いつやめるかは、3度目の王座の返り咲きをした時だと話しています。

Q5. 辰吉丈一郎の名言集として読める本や、映画はある?

本なら、本人の88の言葉を集めた『魂の言葉』(ベースボール・マガジン社・2015年)です。冒頭には父・粂二さんの「ジョー、泣いてもなんでもええから負けを認めるな」があり、紹介には「やる、言うたらやるんや!」が置かれています。ほかに自伝の『波瀾万丈』(1995年)と『波瀾万丈 続』(1998年)、『Boxer 辰吉流発想法』(1999年)、『それでもやる』(小学館101新書・2011年)があります。映画なら、阪本順治監督が1995年から2014年まで辰吉さんを撮り続けたドキュメンタリー『ジョーのあした -辰吉丈一郎との20年-』(2016年)です。予告篇は映画の公式サイトで見られます。


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