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橋本真也の名言30選!破壊王の「時は来た!それだけだ」と長州力とのコラコラ問答

橋本真也の名言30選!破壊王の「時は来た!それだけだ」と長州力とのコラコラ問答

「時は来た!それだけだ」。猪木との試合を前に、隣の蝶野正洋が笑いをこらえたこの一言で知られる、プロレスラー・橋本真也の名言です。小川直也に敗れた夜の怒りや長州力とのコラコラ問答など、破壊王・橋本真也の名言は、どれも本気でぶつかった場面から生まれています。

2026.10.29 | スポーツ

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公式ライター
Activel編集部

「時は来た!それだけだ」は、1990年の東京ドームで猪木との試合を前に、プロレスラーの橋本真也が控室で口にした名言です。隣の蝶野正洋は、笑いをこらえていました。破壊王・橋本真也の名言は、この一言のほかにも、小川直也に一方的に攻められた夜の叫びや長州力とのコラコラ問答など、本気でぶつかった場面から生まれています。

橋本真也のプロフィール

橋本真也は、岐阜県出身のプロレスラーです。高校を卒業してすぐ新日本プロレスに入門し、同期の武藤敬司・蝶野正洋と並ぶ闘魂三銃士の1人で、IWGP ヘビー級王者にもなりました。2001年には自分の団体 ZERO-ONE を旗揚げし、2005年7月11日に40歳で亡くなっています。

基本プロフィール

「破壊王」は、1993年9月に IWGP ヘビー級王者になる前から、もう橋本真也の呼び名でした。

項目 内容
生年月日 1965年7月3日
出身地 岐阜県
亡くなった日 2005年7月11日(40歳)
呼び名 破壊王
入門 1984年4月(新日本プロレス)
同期 武藤敬司・蝶野正洋
主なタイトル IWGP ヘビー級・三冠ヘビー級(全日本プロレス)
旗揚げした団体 ZERO-ONE(2001年)

1993年6月に初めてシングルで戦い、橋本に勝った天龍源一郎は、控室に戻るとぐったりして「やっぱり橋本は破壊王だった」と話しました。1996年に高田延彦を破った試合では、観戦記を寄せた猪木が、「あの橋本の体形から飛び出してくる蹴りはズシリと重く、ヒザがガタガタになってしまうほどの威力がある」とたたえています。「破壊王」という呼び名を最初に誰が付けたのかは、分かっていません。

新日本プロレス入門からZERO-ONE、40歳で亡くなるまでの歩み

入門から亡くなるまでの21年は、師匠の猪木に挑み、猪木が率いる団体 UFO の小川直也に敗れ、新日本を離れて自分の団体を作る道のりでした。

  • 1984年4月: 新日本プロレスに入門(同期に武藤敬司・蝶野正洋)
  • 1989年4月24日: 東京ドームで長州力に勝つ
  • 1990年2月10日: 東京ドームで猪木・坂口征二組と戦う(試合の前に「時は来た!それだけだ」)
  • 1993年9月20日: グレート・ムタを破り、IWGP ヘビー級王座を初めて獲得
  • 1996年4月29日: 高田延彦を破り、IWGP ヘビー級王座を取り戻す
  • 1999年1月4日: 東京ドームで小川直也に一方的に殴られ、蹴られて、ノーコンテストに(1・4事変)
  • 2000年4月7日: 「負けたら即引退」の試合で小川に敗れ、引退
  • 2000年10月9日: ファンから贈られた約100万羽の折り鶴を受けて、東京ドームで復帰(その後、新日本プロレスを解雇される)
  • 2001年3月2日: 両国国技館で ZERO-ONE の旗揚げ戦
  • 2003年2月23日: グレート・ムタを破り、全日本プロレスの三冠ヘビー級王座を初めて獲得
  • 2004年8月31日: ZERO-ONE の岩手・盛岡大会が最後の試合に(その後、ZERO-ONE が崩壊し、橋本は1億円を超える負債を抱える)
  • 2005年7月11日: 横浜市内の自宅で倒れ、脳幹出血で亡くなる(40歳)

橋本真也の名言30選

破壊王・橋本真也の名言は、入門初日に蝶野正洋とけんかした時の「俺だよ。悪いか?」から、亡くなる年の「遅くても今秋、復活する」まで、21年にわたります。笑える一言のほかに、亡くなった付け人が運転した時にできた車の傷を「消さんでいい」と残した言葉や、がんと闘う冬木弘道に向けた言葉もあります。

「時は来た!それだけだ」と猪木に挑んだ頃の名言

橋本真也の「時は来た!それだけだ」は、1990年2月10日、猪木・坂口征二組と戦う直前の東京ドームの控室で、テレビのインタビューに答えた言葉です。組んだのは、6年前の入門初日に洗濯機の順番でつかみ合いのけんかをした同期の蝶野正洋でした。若手の頃の橋本は、長州力たちに控室で制裁されても「次やってきたら倒してやる」と言い、モスクワのクレムリンでは上半身裸になって通訳に叱られています。

01「俺だよ。悪いか?」

— 1984年4月、新日本プロレスの入門初日、道場の洗濯機の順番を飛ばされて怒った蝶野正洋に

02「2人がかりでリンチは許せない。特に長州。次やってきたら倒してやる」

— 1987年6月、試合でヒロ斎藤の手を骨折させ、長州力たちから控室で制裁を受けた後に

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発言時期: 1987年6月(3日の北九州大会の後、東京の道場で)

発言状況: デビュー3年目の橋本は、北九州大会で長州力の仲間のヒロ斎藤と戦い、蹴りでヒロ斎藤の左手の甲を骨折させました。怒った長州力とマサ斎藤から、試合の後の控室で制裁を受けます。巡業を外れて東京に戻った橋本は、道場にいた後輩の鈴木みのるにこう話しました。この話は、鈴木から聞いた船木誠勝が後に明かしています。長州との初めての一騎打ちは1989年4月24日の東京ドームで、橋本がエビ固めで勝ちました。

03「蝶野ちゃんもスーツ作りなよ」

— 若手の頃、ニューヨークで猪木のゴールドカードを預かっていた時、自分のスーツを作った後で蝶野正洋に

04「だって警察は何も言わなかったよ」

— 1989年12月31日、モスクワ大会の日、クレムリンの大砲の前で上半身裸になり、通訳に叱られて

05「時は来た!それだけだ」

— 1990年2月10日、東京ドームで猪木・坂口征二組と戦う直前、控室のテレビのインタビューで

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発言時期: 1990年2月10日(新日本プロレスの東京ドーム大会のメインイベントの直前)

発言状況: テレビ朝日の佐々木正洋アナウンサーのインタビューでした。その少し前、猪木は自分の控室で「出る前に負けること考えるバカいるかよ」と言って、アナウンサーに平手打ちをしています。蝶野は後のコラムで、この頃のことを振り返っています。試合の前の控室を撮る演出が始まったばかりで、自分たちはアメリカ仕込みの派手なパフォーマンスで盛り上げることを求められていました。蝶野が「つぶすぞ、今日は!よく見とけ、オラ!」と怒鳴った後、鉢巻き姿の橋本は仁王立ちで、この一言だけを口にしました。隣で笑いをこらえる蝶野の姿が映り、後々テレビや雑誌で何度も取り上げられました。試合の後、猪木はマイクで「橋本と蝶野。もう今日は立っているのがやっとでした。本当に強くなりました」と話しています。

06「山本、もう1回」

— 1991年2月、山形・酒田の試合の前、付け人の山本広吉(のちの天山広吉)に石段のうさぎ跳びをさせて

1990年2月10日のこの試合の前と後に猪木が言った言葉は、アントニオ猪木の名言の中にあります。

IWGPチャンピオン時代の名言

1993年9月、橋本真也はグレート・ムタを破って、IWGP ヘビー級のベルトを初めて巻きました。1995年2月にはベルトを8回続けて守って当時の新記録を作り、新日本の選手会長も務めています。王者になる前の1993年1月4日には、けがで欠場した猪木の赤いガウンを着て、東京ドームに現れました。

07「勝手に持ってきた」

— 1993年1月4日、猪木の赤いガウンを着て東京ドームに現れて

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発言時期: 1993年1月4日(新日本プロレスの東京ドーム大会)

発言状況: 前の年の12月10日、橋本は審議中の国会に猪木を訪ね、1月4日の東京ドームで組んでほしいと直訴しました。猪木は「将来プロレスを背負っていかなければならない男。今は壁に当たっているが、乗り越えてもらいたい」と言ってタッグを認め、「将トハ智、信、仁、勇、厳ナリ」と書いた色紙を届けています。ところが猪木が足首をけがして、師弟のタッグは実現しませんでした。当日の橋本は、猪木の赤いガウンを着て入場しています。

08「俺がチャンピオンの橋本だ。誰でもかかってこい」

09「こんなことを放っておけば、海外へ出た選手がみんな自分勝手な行動に走ってしまう。絶対に許すわけにはいかん。できなければ、選手会が存在している意味がない」

— 1995年2月、新日本の選手会長として、後楽園ホールの控室で

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発言時期: 1995年2月12日(後楽園ホール大会の後の控室)

発言状況: ドイツから帰国したばかりの天山広吉(本名は山本広吉)が、この日のメインで蝶野正洋の側につき、長州力・橋本・平田淳嗣組と戦って長州からフォールを奪いました。控室の長州は「お前ら調子に乗る奴を上でひとつでも対処できんのかコラ!」「お前ら選手会の問題だろうがコラ!」と選手たちを怒鳴りつけます。選手会長の橋本はこう話し、帰国の命令を聞かなかった西村修のことにも触れました。翌日、橋本は天山を選手会から永久に追放すると発表しました。

10「サベージ、ホーガン、スティング、フレアー…世界中の強豪と闘いたい」

— 1995年2月19日、スコット・ノートンに勝ってベルトを8回続けて守り、当時の新記録を作って

11「一緒にプロレスを盛り上げましょう」

— 1995年4月2日、東京ドームのメインで蝶野正洋に勝った後、リングに呼んだ週刊プロレスの編集長と手を取って

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発言時期: 1995年4月2日(東京ドーム「夢の懸け橋」)

発言状況: 週刊プロレスの山本編集長(ターザン山本)がプロデュースし、観衆は6万人と発表された大会です。メインで蝶野に勝った橋本は、後ろに控えていた山本編集長をリングに呼び込み、手を取ってこう観客に呼びかけました。すると、思いがけず館内からブーイングが起こります。山本編集長は後に、雑誌が業界を仕切るような形になって、みんなの気持ちが離れていたからだと振り返り、「橋本が呼ばなくていいのに呼んでしまったんですよ」と話しています。

12「ベルトの価値を高めたのはオレだ」

— 1996年、IWGP ヘビー級王者の高田延彦への挑戦を名乗り出た頃

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発言時期: 1996年(4月29日の東京ドームの高田延彦戦の前)

発言状況: 新日本と UWF インターナショナルの対抗戦で、1996年1月4日に高田が武藤敬司を破り、IWGP ヘビー級のベルトを持っていきました。挑戦を名乗り出たのは、当時 IWGP の通算防衛の最多記録(13回)を持っていた橋本です。4月29日の東京ドームでは、頭からマットに突き刺す技(垂直落下式 DDT)を決めてもあえてフォールにいかず、三角絞めでギブアップを奪いました。観戦記を寄せた猪木は、橋本の蹴りを「ヒザがガタガタになってしまうほどの威力がある」とたたえています。

1・4事変と小川直也との戦いの名言

1・4事変は、1999年1月4日の東京ドームで、橋本真也が小川直也に一方的に殴られ、蹴られて、ノーコンテストになった試合です。小川は、猪木が率いる団体 UFO の選手でした。橋本は同じ年の10月の再戦にも敗れ、2000年4月7日には「負けたら即引退」をかけた試合で小川に負けて、一度は引退します。復帰を決めたのは、ファンの兄弟から約100万羽の折り鶴を贈られてからでした。

13「何がアントニオ猪木だ! 許さないぞ! アントニオ猪木」

— 1999年1月4日、東京ドームで小川直也に一方的に攻められた試合の後に

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発言時期: 1999年1月4日(新日本プロレスの東京ドーム大会)

発言状況: 小川直也は、猪木が率いる団体 UFO の選手でした。入場の時からいつもと様子が違い、興奮していた小川は、ゴングと同時に橋本の顔面にパンチを打ち込みます。タックルで何度もしがみついてこらえる橋本を、小川は一方的に殴り、蹴り続け、試合はノーコンテスト(無効試合)になりました。控室でこの試合を見ていた蝶野は後に、これはプロレスなのか、小川が仕掛けているのかと不思議だった、橋本はなぜやり返さないのかと思っていた、と振り返っています。試合の後、橋本は師匠の名前を叫びました。10月11日の再戦では、小川の投げ技 STO を続けて受けた橋本を見て、猪木が試合を止めています。

14「福田との思い出や。それは消さんでいい」

— 付け人のケンゾー(鈴木健三)に車の傷のことを聞かれて。2000年4月にリングの上で亡くなった福田雅一が運転した時の傷だった

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発言時期: 2000年4月より後(年月日は分かっていません)

発言状況: 車にこだわる橋本は、付け人のケンゾー(鈴木健三)に「傷は放っておくなよ。車だけはいつも完璧にしないとあかんぞ」と繰り返していました。ある日、傷に気づいたケンゾーが「橋本さん、ここ、傷がありますけど」と声をかけると、橋本は驚かずに「福田が運転した時の傷や」と答え、こう続けました。福田雅一は、ケンゾーの兄弟子にあたる付け人で、2000年4月にリングの上で急に亡くなったばかりでした。

15「あいつは血の一滴になるまで戦った」

ZERO-ONEと長州力とのコラコラ問答の名言

2000年10月に復帰した後、橋本真也は新日本プロレスを解雇されます。新日本の中に自分の部隊を作ってもらいながら、新日本に無断で自分の会社を登記し、プロレスリング・ノアと交渉を始めたためでした。2001年1月4日の東京ドームで長州力と戦った試合は藤波辰爾に止められ、3月には自分の団体 ZERO-ONE を旗揚げして、ノアの三沢光晴や全日本プロレスの武藤敬司と戦いました。2003年11月には、会見の場に乗り込んできた長州とのコラコラ問答があり、12月の試合で長州に勝っています。

16「新日本はこんなもんじゃなかったはず。ふざけんな!」

— 2001年1月4日、東京ドームの長州力戦が止められた後、控室で

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発言時期: 2001年1月4日(新日本プロレスの東京ドーム大会)

発言状況: 試合の途中、ゲストで解説していた藤波辰爾社長がリングに上がり、マイクで「これはもう試合じゃない! 我々は殺し合いをしているんじゃないんだ。わかってください」と言って、15分20秒で試合を終わらせました。勝ち負けのつかない、両者レフェリーストップです。観客には止めた理由が分からず、「金返せ!」などの怒号が飛びました。長州は意外なほどさばさばしていましたが、橋本は控室のテーブルを投げ倒し、こうわめき散らしています。

17「こんな試合は恥ずかしくて、とても猪木さんには報告できない」

— 同じ試合の後、肩を落として会場を後にする時に

18「三沢、三沢。思い通りにしてやるから覚えとけ」

— 2001年3月2日、ZERO-ONE の旗揚げ戦の後のリングで、ノアの三沢光晴に

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発言時期: 2001年3月2日(両国国技館・ZERO-ONE の旗揚げ戦)

発言状況: メインの試合でフォールを奪われた橋本が秋山準に向かっていくと、両陣営のセコンドが20人以上リングになだれ込みました。そこへ猪木が率いる UFO の小川直也が上がり、「三沢! 受けてもらおうじゃねぇか、勝負を」と挑発すると、三沢がエルボーを見舞います。マイクを渡された三沢は「お前らのな、思う通りにはしねぇよ。絶対!」と返します。背を向けた三沢に、橋本はこう追い打ちをかけました。

19「破壊なくして創造はなし、悪しき古きが滅せねば誕生もなし、時代を開く勇者たれ!」

20「三沢、お前の男気受け取ったぜ。ありがとよ。だけどな、何回でもお前たちに頭下げてもいいから。戦え、三沢~!」

— 2001年4月18日、日本武道館の ZERO-ONE の大会の後、引き揚げる三沢光晴に

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発言時期: 2001年4月18日(日本武道館・ZERO-ONE の2戦目)

発言状況: 三沢が2大会続けて出た、ZERO-ONE の2戦目です。橋本は試合で井上雅央に三角絞めを決め、右肩を脱臼させています。試合の後、三沢は「もうちょっとやってみたかったね、というのがすべてじゃねぇの」と話しました。橋本は引き揚げる三沢にこう叫び、控室では小川に「2人でノアに乗り込むぞ」と話しかけています。けれども、ノアとの交流戦はこの大会が最後になりました。

21「みんな聞いてくれ。全日本プロレス、ZERO-ONE、全面戦争の開戦だ、コラッ!」

— 2003年2月2日、ZERO-ONE の大会に武藤敬司と全日本プロレスの選手たちが乗り込んできた時に

22「挑戦を受けます。5月5日のリングに立っていれば、それだけで冬木さんの勝ち」

— 2003年3月11日、がんと闘う冬木弘道が病院を抜け出して立ったリングで

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発言時期: 2003年3月11日(冬木がプロデューサーを務めた団体 WEW の後楽園ホール大会)

発言状況: 冬木弘道はがんが肝臓に移り、前の月には腸閉塞で容体が悪くなっていました。それでも病院を抜け出し、青白い顔で自分の足でリングに立ちます。そこへ橋本が花束を持って現れ、会場の隅で見守っていた薫夫人に「くだらねえ理由はなしだ。冬木さんの情熱わかりました。文句を言うなよ。男が命をかけたんだ。奥さん、いいでしょうか」と確かめました。薫夫人は「よろしくお願いします」と頭を下げて泣き崩れ、橋本は冬木との対戦を受けました。

23「冬木さんが必死で病気と闘ってんだから、その姿をちゃんと撮らなきゃ」

— 2003年3月19日、冬木弘道の病室から出てきて、廊下で待っていたカメラマンに

24「奥さんすいません、冬木さんの遺骨貸してください」

— 2003年5月5日、川崎球場の冬木弘道の追悼興行で、試合が始まる前にマイクで

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発言時期: 2003年5月5日(WEW の川崎球場大会「冬木追悼興行」)

発言状況: 冬木弘道は3月19日に亡くなり、約束の5月5日は追悼の大会になりました。橋本の相手は金村キンタローでした。ロープの代わりに有刺鉄線を張り、触れると爆発する電流爆破の試合です。橋本はマイクで薫夫人に頼んで遺骨を受け取ると、天に掲げて目を閉じ、遺骨を抱えたまま自分から背中で有刺鉄線に当たりにいきました。場内には橋本コールが起こっています。

25「肩の痛みでヒザの痛みを忘れた」

— 2003年7月、両国国技館の試合で右肩を脱臼し、深夜に病院へ緊急入院した時に

26「長州力は死んだ」

— 2003年、専門誌に載った言葉。長州力とのコラコラ問答のきっかけに

27「なにがコラじゃ! コラ、馬鹿野郎」

— 2003年11月18日、会見の場に乗り込んできた長州力とのコラコラ問答で

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発言時期: 2003年11月18日(橋本の事務所での会見)

発言状況: 専門誌に載った橋本の「長州力は死んだ」という言葉から挑発が続き、橋本との関わりを避けてきた長州が、会見中の橋本のもとに突然現れました。2人が向き合うのは、2001年1月4日の東京ドーム以来、2年10か月ぶりです。長州の「噛みつきたいのか噛みつきたくないのか、どっちなんだ。どっちなんだコラ!」から、「なにコラ、タコ、コラ!」「舐めてんのかコラ!」と、コラの応酬が続きました。当時 ZERO-ONE の専務だった中村祥之は、後に、このやり取りを仕掛けたのは自分だったと明かしています。

28「自分を作りあげてくれたのは長州力」

— 長州力への感謝の言葉として(いつ言ったかは分かっていません)

29「俺らが軽自動車に乗ってたら夢がないやろ」

— ZERO-ONE の頃、自分の暮らしぶりを落とさない理由を、当時のマネジャーに

30「遅くても今秋、復活する。レスラーとして数年で負債を完済する力はある」

— 2005年、ZERO-ONE の崩壊で負った負債を抱えながら、秋のリング復帰を目指していた頃

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発言時期: 2005年(7月11日に亡くなる前)

発言状況: ZERO-ONE が崩壊し、橋本は1億円を超える負債を背負っていました。代理人は、その負債について「相当な心労があったと思う」と明かしています。最後の試合は前の年の8月31日、ZERO-ONE の岩手・盛岡大会です。その後はフリーの立場で秋のリング復帰を目指していましたが、7月11日の朝、横浜市内の自宅で倒れ、運ばれた病院で亡くなりました。病院に駆けつけた蝶野正洋は「先週、本人に『体調が悪い』と聞かされた」と話し、坂口征二は「10月の東京ドーム大会に彼の名が挙がっていた。復帰戦は新日本でやってほしかった」と悔やんでいます。

よくある質問(Q&A)

Q1. 「時は来た!それだけだ」は、いつ・どんな場面の言葉?

橋本真也のセリフ「時は来た!それだけだ」の元ネタは、1990年2月10日の東京ドームの控室の場面です。蝶野正洋と組んでアントニオ猪木・坂口征二組と戦う直前に、テレビのインタビューで言いました。隣の蝶野が笑いをこらえる姿も映り、後々テレビや雑誌で何度も取り上げられています。

Q2. 「時は来た」の時、隣の蝶野正洋はなぜ笑っていた?

蝶野が振り返るところでは、自分が「つぶすぞ、今日は!」と怒鳴って盛り上げた後、橋本が仁王立ちで言ったのが「時は来た!それだけだ」の一言だけだったからです。当時は試合の前の控室を撮る演出が始まったばかりで、選手は派手に盛り上げることを求められていました。

Q3. 1・4事変とは? 試合の後、橋本真也は何と言った?

1999年1月4日の東京ドームで、橋本真也が猪木の率いる団体 UFO の小川直也に一方的に殴られ、蹴られて、ノーコンテストになった試合です。試合の後、橋本は「何がアントニオ猪木だ! 許さないぞ! アントニオ猪木」と叫びました。小川との戦いは2000年4月7日の「負けたら即引退」の試合まで続き、橋本は敗れて一度引退しています。

Q4. 長州力とのコラコラ問答とは?

2003年11月18日、会見中の橋本真也のもとに長州力が突然現れ、「コラ」をぶつけ合った言い合いです。きっかけは、専門誌に載った橋本の「長州力は死んだ」でした。2人は12月14日の両国国技館で戦い、橋本がヒザ十字固めで勝っています。

Q5. 橋本真也が「破壊王」と呼ばれたのはなぜ?

1993年6月に初めてシングルで戦った天龍源一郎は、試合の後の控室で「やっぱり橋本は破壊王だった」と話しています。若手の頃には蹴りでヒロ斎藤の手の甲を骨折させ、1996年に高田延彦を破った時には、猪木が「ヒザがガタガタになってしまうほどの威力がある」と蹴りをたたえました。最初に誰がそう呼んだのかは、分かっていません。

Q6. 橋本真也とアントニオ猪木はどんな関係だった?

猪木は橋本の師匠です。1990年の東京ドームで橋本は猪木と戦い、1992年12月には国会まで猪木を訪ねてタッグを直訴しました。1996年に高田延彦に勝った時には、猪木が観戦記で橋本の蹴りをたたえています。1999年1月4日、猪木の率いる団体 UFO の小川直也に一方的に攻められた夜には、「許さないぞ! アントニオ猪木」と叫びました。


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