「精神的なこと、これも技術のうち」。シューティング合宿で佐山聡が練習生に語った名言です。合宿の「なめてんのか」の場面から、初代タイガーマスク時代や修斗をつくった頃の言葉まで、佐山聡の名言50選をいつ・どこで言ったかと一緒に読めます。
シューティング合宿の練習生に向けて、初代タイガーマスクの佐山聡は「精神的なこと。これも技術のうち」と語りかけました。動画やモノマネで広まった、あの言葉です。佐山聡の名言は、合宿の外にもあります。人気の絶頂でタイガーマスクを辞めた理由、修斗をつくった考え方、師のアントニオ猪木への思い。佐山聡の名言50選を、語った時期や場面と一緒に読めます。
佐山聡のプロフィール
佐山聡は、1981年に初代タイガーマスクとしてデビューし、のちに打撃・投げ・極めを合わせた格闘技「修斗」をつくった人物です。佐山聡の名言の多くは、新日本プロレス・UWF・修斗・ストロングスタイルプロレスと移り変わった歩みの節目で語られています。
基本プロフィール
本名は佐山聡(さやま さとる)です。初代タイガーマスクのほかに「佐山サトル」の名前も使っていて、本人のブログの名前は「初代タイガーマスク 佐山サトルのブログ」です。
| 項目 |
内容 |
| 本名 |
佐山聡(さやま さとる) |
| 生年月日 |
1957年11月27日 |
| 出身 |
山口県下関市 |
| 入門 |
1975年(新日本プロレス) |
| デビュー |
1976年5月28日 |
| タイガーマスク |
1981年4月〜1983年8月 |
| 創始 |
シューティング(のちの修斗) |
| 主宰 |
ストロングスタイルプロレス |
デビュー戦の相手は魁勝司で、会場は後楽園ホールでした。タイガーマスクを辞めた後は、シューティングのほかに、市街地型実戦武道の掣圏道(のちの掣圏真陰流)や、2023年7月に発表した神厳流総道も始めています。
初代タイガーマスクからシューティング(修斗)までの歩み
佐山聡は、テレビで見たアントニオ猪木にあこがれて1975年に新日本プロレスに入り、猪木の付け人を務めました。若手のころから、格闘技としての強さを追い続けています。
| 年 |
主な出来事 |
| 1978年 |
メキシコに遠征 |
| 1980年 |
イギリスで「サミー・リー」 |
| 1981年 |
初代タイガーマスクでデビュー |
| 1983年 |
タイガーマスクを引退 |
| 1984年 |
UWF でリングに戻る |
| 1985年 |
シューティングを始める |
| 1996年 |
修斗の運営を離れる |
| 1999年 |
掣圏道を始める |
| 2005年 |
プロレス団体を立ち上げる |
また、UWF ではザ・タイガー、スーパー・タイガーと名乗りました。シューティングはのちに「修斗」と名前を変え、プロを目指す選手の合宿も開いています。その厳しい場面の映像が、のちにシューティング合宿としてネットで広まりました。近年は病気と向き合いながら、ストロングスタイルプロレスの大会でファンの前に立っています。
佐山聡の名言50選
シューティング合宿の言葉の後は、テレビで猪木にあこがれた子どものころをふり返った言葉から、2026年8月の大会でファンに向けたあいさつまで、佐山聡の語録が続きます。語った時期と場面が分かる名言は、「この名言の背景を詳しく読む」を開くと、その時の状況まで分かります。
シューティング合宿の「これも技術のうち」「なめてんのか」
「これも技術のうち」「なめてんのか」は、佐山聡のシューティング合宿の映像で知られる言葉です。佐山聡は2025年12月31日のブログで、動画に出てくる厳しい場面はプロを目指すコースの合宿だと書いています。ミットを蹴っていた練習生の阿部勇司さんは、2019年のインタビューで、「殺すぞっ!!」と喝を入れられた当事者として取材に答えました。さらに、2025年11月26日放送の『水曜日のダウンタウン』では、ハリウッドザコシショウがこの合宿をテーマにした替え歌を披露しています。
01「プロってさ、アマチュアでもいいけどさ、突き進むにはさ、そのくらいの精神力ってのも必要だしさ」
02「技術というのはさ、もちろんあるよ。すごいいっぱいある。今日覚えてほしい、今回の合宿で」
04「自分で高めること。自分でやる気になること。これも技術のうち」
06「これさぁ、自分たちでやってほしいのこれ。俺は手助けするだけだから」
09「選手達の名誉のために言いますが、私にやらされているという者は一人もいません」
— 2025年12月31日、合宿をふり返った本人のブログで
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発言時期: 2025年12月31日
発言状況: 修斗を始めた頃をふり返ったブログ「修斗創世記」の中の一文です。ジムでは厳しい練習をしたい選手と、体力づくりやアマチュアとして学びたい人を分け、プロコースの選手には厳しさを与えたと書いています。「よく動画に出て来る厳しい場面は、プロコースの合宿です」と説明し、竹刀を使ったのはほんの少しで、選手がへばって脱落しそうな時に、わざとアドレナリンを出させて必死の力を出させたとしています。また、「先生、殴って下さい!」と頼んでくる選手もいたそうです。
出典: 本人のブログ「修斗創世記」(2025年12月31日)
新日本プロレスと初代タイガーマスク時代の名言
ここに並ぶのは、漫画やアニメのタイガーマスクのセリフではなく、佐山聡が初代タイガーマスクとして、また後に当時をふり返って語った言葉です。入門からタイガーマスクを辞めるまでの話の多くは、猪木の一周忌を前にした2023年10月の連載インタビューで語られました。
10「『この人のように強くなりたい』と、ただそれだけを考えて目指す毎日が始まりました」
— 2023年10月のインタビューで、猪木にあこがれた子どものころをふり返って
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発言時期: 2023年10月(新日本プロレスに入る前の話)
発言状況: 山口県下関市で育った佐山聡は、テレビでアントニオ猪木の試合を見て、新日本プロレスを旗揚げしてストロングスタイルを掲げた姿に「ひと目ぼれ」したそうです。また、小学2年から柔道を学び、高校ではレスリング部に入りました。高校を1年で辞めて、1975年に新日本プロレスに入門しています。
11「当時の新日本の若手は、みんな『猪木のためなら死ねる』という覚悟を持った選手ばかりでした」
— 2023年10月のインタビューで、猪木の付け人だった若手時代をふり返って
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発言時期: 2023年10月(1976年のデビューの後の話)
発言状況: 付け人の仕事は、巡業の荷物の整理、宿舎での背中流し、食事の給仕、練習のサポートなど、師の身の回りのすべてでした。佐山聡は「毎日が楽しくてたまらない日々でした」と続け、最後は猪木の財布を預かって、食事や買い物の支払いをしていたと明かしています。
12「そうか!プロレスはケンカでいいんだ」
— 2023年10月のインタビューで、若手時代に聞いた猪木の言葉をふり返って
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発言時期: 2023年10月(若手時代の話)
発言状況: 道場では強く練習も真面目なのに、試合では会場が沸かない先輩がいました。猪木はその先輩に「お前、町でケンカしてこい!」と言い、「お前のプロレスより町のケンカのほうが面白い」と指導したそうです。それを聞いた佐山聡は「ケンカでいいんだったらリングの上で徹底的にやってやる」と決め、若手時代の自分にとって強烈な言葉だったとふり返っています。
13「若手時代は、自分のことをプロレスラーではなく格闘家だと思っていました」
— 2023年10月のインタビューで、新日本プロレスの道場をふり返って
14「真の格闘技とは打撃に始まり、組み、投げ、最後に極めで終わる」
— 若手時代に合宿所の部屋に色紙で貼っていた言葉(2023年10月のインタビューで)
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発言時期: 新日本プロレスの若手時代(2023年10月のインタビューで明かした)
発言状況: 佐山聡は若手のころ、この言葉を色紙に書いて自分の部屋の壁に貼り、キックボクシングの目白ジムに通いました。目的はキックを覚えることではなく、どうやって打撃をかいくぐってタックルに入るか、組み手もある打撃とはどういうものかを追い求めることでした。
15「すべては、あの時の猪木さんの言葉が原点です」
— 2023年10月のインタビューで、1977年に猪木から言われた言葉をふり返って
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発言時期: 2023年10月(1977年の話)
発言状況: 佐山聡は猪木に「新日本が市民権を得るために、セメントでやる競技を新日本の中に作りましょう」と訴えました。何日か後、猪木はマーシャルアーツのルールブックを渡して「お前を第一号の選手にする」と告げたそうです。この言葉に続けて、佐山聡は「猪木さんから言われなければ、この格闘技につながる道はありませんでした」と言い切っています。
16「キックの試合というより、新しい格闘技の試合だと思ってリングに上がりました」
— 2023年10月のインタビューで、1977年11月14日のマーク・コステロ戦をふり返って
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発言時期: 2023年10月(1977年11月14日、日本武道館の試合の話)
発言状況: 相手は全米プロ空手の選手マーク・コステロで、2分6ラウンドのキックボクシングのルールでした。ただし、佐山聡が見せたタックルからの投げは反則で、試合は判定で負けています。試合を見ていた猪木は「よくやった」と声をかけ、佐山聡は「あのひと言が、格闘技をやろうとしていた僕にとって希望になったんです」と明かしています。
17「僕の中でメキシコ行きは『島流し』だと思いました」
— 2023年10月のインタビューで、1978年6月のメキシコ遠征をふり返って
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発言時期: 2023年10月(1978年6月の話)
発言状況: 格闘技部門の第一号を目指していた佐山聡は、覆面レスラーと空中殺法が中心のメキシコのプロレスへの遠征を命じられ、「本当にガッカリしましたね」と打ち明けました。その後、1980年にはイギリスで「サミー・リー」として戦い、「ずっと、イギリスで試合をやっていきたいと思っていた」と言いますが、1981年4月に帰国してタイガーマスクになりました。
18「僕はずっと格闘技をやりたかった。だけど、メキシコに行かされて、タイガーマスクになってしまった」
— 2023年10月のインタビューで、タイガーマスクの人気の中にいた頃をふり返って
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発言時期: 2023年10月(1981〜1983年の話)
発言状況: タイガーマスクになってからも、いつかは格闘技ができると思っていたそうです。ただ、人気が出すぎたため、1年くらいで「格闘技の話はもうないんだな」と気づきました。それでも、約束がどうなったのかを猪木に聞くことはできなかったと言います。
19「オレはチンドン屋みたいだ。失意のどん底だった」
— 2025年8月の講演会で、1981年4月のデビュー戦の前をふり返って
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発言時期: 2025年8月(1981年4月の話)
発言状況: 神田明神での特別講演会で語った言葉です。タイガーマスクのデビュー戦の前に初めて渡されたのは、「あきらかにマジックで描かれていた」マスクと、腰までしかない短いマントだったそうです。
20「リングを下りて控室に戻ると、記者が押し寄せてきて『素晴らしい試合だった』と言われた。初めて良かったのか、と知りました」
— 同じ講演会で、1981年4月23日のダイナマイト・キッド戦をふり返って
21「タイガーマスクは、サミー・リーが覆面を被っただけです」
— 2008年7月、DVD の撮影でデビュー戦の映像を見た後に
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発言時期: 2008年7月
発言状況: 1981年4月23日のデビュー戦の映像を最初から最後まで見た後、佐山聡は「動きとしては、サミー・リー時代のことを繰り返していただけですね」と話しました。隣にいた聞き手が「サミー・リーの段階でタイガーマスクは完成していたのか」と確かめると、「そうです」と答えて続けたのがこの言葉です。
22「猪木さんの土壌や考え方がなければできていないです」
— 2026年4月のインタビューで、タイガーマスクをふり返って
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発言時期: 2026年4月(初代タイガーマスクのデビュー45周年の記念イベントの前)
発言状況: タイガーマスクが日本中を沸かせた理由を聞かれ、佐山聡は新日本プロレスの若手だった3年間の練習や試合のつくり方がすべてだったと答えました。「決して自分だけの力ではない」と言い、新日本プロレス、猪木、山本小鉄、先輩たちへの感謝を口にしています。自分ひとりでつくったタイガーマスクではないのかと聞かれて、この言葉を返しました。
23「猪木さんが貫いたプロレスの大切な部分は、『表現』が1、2割で、あとは『ガチンコ』。それがストロングスタイルです」
— 2023年10月のインタビューで、師が貫いたプロレスについて
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発言時期: 2023年10月(タイガーマスク時代の話)
発言状況: タイガーマスクとして試合をしながら、「今、僕は猪木さんの美意識に合うプロレスをやれているのか」と、猪木の目を意識していたそうです。猪木のストロングスタイルは「相手の技を受けてはいけない」もので、格闘技の土台がないとできないと説明したうえで、この言葉を続けました。
24「両方に義理を立てるために、タイガーマスクを辞めたんです」
— 2023年10月のインタビューで、1983年8月の引退をふり返って
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発言時期: 2023年10月(1983年8月の話)
発言状況: 当時の新日本プロレスでは、先輩レスラーと会社の幹部が猪木・坂口征二・新間寿の3人を追い出そうとする騒動が起きていました。佐山聡は先輩から誘われましたが断りました。一方で、3人にもその先輩にも恩があったため、板挟みになりました。シリーズは1983年8月4日に最終戦を迎え、佐山聡は「最後の寺西さんとの試合の時には、『これが最後になる』と決意していました」と話しています。
25「プロレスにはもう復帰しないで、格闘技を創る」
— 2026年4月のインタビューで、1983年8月の引退の時の思いをふり返って
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発言時期: 2026年4月(1983年8月の話)
発言状況: タイガーマスクに区切りをつけた時の思いを聞かれて答えた言葉です。続けて「その格闘技は30年後に花開くものだと。それでルールから創っていったわけです」と話し、総合格闘技の礎になったことには「それは自負しています」と答えています。
UWF・シューティング(修斗)と武道の名言
佐山聡は1984年7月にUWF でリングに戻り、同じころから新しい格闘技「シューティング」を形にしていきました。シューティングはのちに「修斗」と名前を変えています。修斗をつくった考え方や武道についての言葉は、本人がブログに書いたものが多くあります。
26「僕が新日本を辞めたということは、猪木さんとの決別を意味します」
— 2023年10月のインタビューで、1983年に新日本プロレスを辞めた時をふり返って
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発言時期: 2023年10月(1983年の話)
発言状況: この言葉に続けて、「自分の理想を実現するべく格闘技の世界へ進むことを決めました」と語りました。辞めた後、週刊誌に「クーデター事件の首謀者は佐山だ」という記事が出たため、猪木に会って「あれは嘘です」と伝え、あわせて「これからは格闘技へ行きます」と初めて自分の思いを伝えたそうです。
27「プロレスを格闘技へ移行させるための実験でした」
— 2023年10月のインタビューで、UWF 時代をふり返って
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発言時期: 2023年10月(1984〜1985年の話)
発言状況: UWF ではリングネームを「ザ・タイガー」から「スーパー・タイガー」に変えました。プロレスのあいまいなルールを競技のように厳しくし、ルールブックを作ってランキング制も取り入れましたが、選手や会社の理解を得られず、1985年9月に UWF を離れています。
28「マスクに影響されずに、思いっ切りやればいい」
— 1988年4月2日、二代目タイガーマスクの三沢光晴に向けて
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発言時期: 1988年4月2日
発言状況: 両国国技館で開かれた梶原一騎の追悼記念試合「格闘技の祭典」で、佐山聡はスーパータイガーとしてシューティングの模範演技を見せました。終わった後にリングに駆けつけた二代目タイガーマスクの三沢光晴に送った言葉です。2人がリングで初めて戦ったのは、20年後の2008年12月4日でした。
29「斗いを修める『修斗』という名に変え、将来に理念を固める方針にしました」
— 2025年1月15日、本人のブログで「修斗」の名前の由来について
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発言時期: 2025年1月15日
発言状況: 修斗は最初、シューティングの名前を使っていました。佐山聡は、もともと相撲のような精神性を持つ武道にしたかったものの、当時25、6歳でまとめ方が分からず、その思いだけを名前に込めたと説明しています。つまり、最初はルールづくりと技術の開発に力を注ぎ、精神性の研究にはその後の三十年で取り組んだそうです。
出典: 本人のブログ「武道修斗」(2025年1月15日)
30「せめて半分はスポーツとして、半分は武道として」
— 同じブログで、修斗に望むことについて
33「何も見えない吹雪の中、何かを求めて自分達が今どの辺にいるかもわからずに……進まなくてはならなかったのです」
— 2025年12月31日、本人のブログ「修斗創世記」で、シューティングを始めた頃について
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発言時期: 2025年12月31日(1980年代の話)
発言状況: ジムを開いてシューティングを始めた頃、日本では総合格闘技を知る人がほとんどいない時代でした。さらに、打撃・投げ・極めで試合ができるほかの団体もなく、対戦相手もいないため、ジムを三〜四つに分けて競わせ、佐山聡が回って教えたそうです。
34「何も無い砂漠の中に一大都市を作るようなものだったのです」
— 2026年6月8日、本人のブログで、総合格闘技をつくった頃について
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発言時期: 2026年6月8日(四十年前の話)
発言状況: 総合格闘技をつくる時、タイガーマスクの影響が大きすぎ、周りに急かされて、試合のためのルールづくり、試合場、新しいグローブ、選手の育成に追われたとふり返っています。当時のインタビューで「相撲のようなものを創りたい」「将来は天覧試合をやりたい」と答えていたことにも触れ、「それは今も全く変わっていません」としています。
出典: 本人のブログ(2026年6月8日)
35「修斗、総合格闘技は40年前に私がつくったが、技術、闘い方(だけでなく)、精神的なものを入れるところは若かったのでまだできなかった」
— 2025年12月4日、ストロングスタイルプロレスの20周年大会のリングで
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発言時期: 2025年12月4日
発言状況: 後楽園ホールでの20周年大会で、休憩明けにあいさつした時の言葉です。闘病中でしたが、自分の足で花道を歩いてリングに入りました。この後に「日本発祥の武道として日本が誇るプライドを持ってつくりたい」と続け、バックステージでは「技術、闘い方はつくったが、一番肝心なものを入れてないなと」と話しています。
修斗の大会で実績を残した堀口恭司や山本KID徳郁のプロフィールは、格闘技のイケメン選手20人にあります。
猪木への思いと闘病・ファンへの名言
2022年10月1日に、師のアントニオ猪木が亡くなりました。佐山聡自身も2018年に体調を崩し、翌年1月に「パーキンソン病の疑い」と診断されています。それでもブログや大会のあいさつで、ファンに言葉を届けてきました。
39「新日本プロレス、シューティング、修斗……僕の中では全部、つながっています」
— 2023年10月、猪木の一周忌を前にした連載インタビューの最終回で
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発言時期: 2023年10月
発言状況: 1996年に修斗の運営を離れた後、佐山聡は猪木に呼ばれて新日本プロレスに参戦し、1998年には猪木が立ち上げた UFO の運営にも関わりました。1999年に掣圏道を始め、2005年にはプロレス団体を立ち上げています。こうした歩みをふり返って、「それは、すべて『アントニオ猪木』からスタートしているということ」と続けました。
40「総合格闘技の原点について、一般の方々にとっては『猪木vsアリ』なのかもしれませんが、私たちにとっては『猪木イズム』こそが原点なんです」
— 同じインタビューで
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発言時期: 2023年10月
発言状況: 総合格闘技の原点を「猪木vsモハメド・アリ」とする見方について、佐山聡が自分の考えを語った言葉です。「あの道場で強さを追求した猪木イズム。あの魂がすべての原点なんですよ」と続け、「そこだけは忘れてはいけない、非常に重要なことです」と強調しています。
41「会えて幸せでした。会えてよかったです」
— 2018年、猪木と最後に会った食事の席で(2023年10月のインタビューで明かした)
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発言時期: 2018年(2023年10月のインタビューで明かした)
発言状況: 2018年夏に佐山聡は体調を崩し、猪木も難病を患っていました。そのころ六本木の中華料理店で食事に招かれ、話すうちに自然とこの思いを伝えたそうです。一方の猪木は、何も言わずにうなずいていたと言います。佐山聡は「死に目には会えなかったんですが、あの5年前に直接、自分の思いを猪木さんに伝えることができたので、僕の中で思い残すことはありません」と話しています。
42「猪木イズムですね。今後も残さなくてはいけないと思います」
— 2022年10月、猪木の死去を受けて
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発言時期: 2022年10月3日に報じられたコメント
発言状況: 猪木が亡くなる約2週間前に電話で話した時、猪木は「4回死ねなかったよ」と語っていたそうです。会う話になっていたものの、佐山聡も体調を崩していて出かけられず、「ショックでした」「残念の極みです」と話しました。そのうえで、猪木のストロングスタイルを残していく決意を込めた言葉です。
44「僕は、自分が信じた『アントニオ猪木』を偶像にして生きていきます」
— 2023年10月のインタビューで、師がどんな人だったかを聞かれて
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発言時期: 2023年10月
発言状況: 猪木の一周忌を迎え、猪木がどんな人だったかを聞かれて、佐山聡は「『猪木さんのためなら命はいらない』と思っていた時期があった」と話し、「僕にとっての『象徴』です」と答えました。続けて「猪木さんの影を忘れないようにして生きていくことが大切だと思います」と言い、この言葉で締めくくっています。
45「僕は藤原喜明がいたおかげで強くなれたんだから」
— 藤原喜明との対談で(猪木の死去から1年3か月のころ)
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発言時期: 猪木の死去から1年3か月のころ
発言状況: 新日本プロレスと UWF で一緒だった藤原喜明との対談の最後に、藤原が「俺の人生、お前がいたから今がある」と言ったのに対し、佐山聡は「僕もその言葉を返します」と答えて、この言葉を続けました。対談の中では、猪木に伝えた「あなたに会えて幸せでした」という言葉を、藤原にも笑いながら贈っています。
47「不思議なのはどんなに悪い時でも、意識はしっかりとしているのです」
— 2021年4月23日、本人のブログで、自分の体調について
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発言時期: 2021年4月23日
発言状況: 前日の4月22日に開かれた初代タイガーマスクのデビュー四十周年の記念大会について書いたブログです。体調は良い時と悪い時をくり返し、数か月前には歩けない時期もあったと明かしています。ただし、人と向き合うと何かに塞がれたような症状が出る一方、一人で集中している時には症状が出ないため、ブログや武道のことはいくらでも書けるとしています。
出典: 本人のブログ(2021年4月23日)
48「その時、絶対にカムバックしてみせますので、皆さん温かい応援よろしくお願いします」
— 2023年10月30日、新宿 FACE の大会でファンに向けて
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発言時期: 2023年10月30日
発言状況: ストロングスタイルプロレスを主宰する佐山聡が会場に来て、ファンにあいさつした時の言葉です。「私も2カ月ぐらい歩いていなかったんですけど、今日は皆さんの顔を見ると、歩けるようになりました。皆さんのおかげです」と話し、今後は病院での検査の結果が出ると明かしたうえで、この言葉を続けました。
49「それと武道をつくるのが今の自分の夢。僕が生きている間の最後の仕事」
— 2026年4月28日、初代タイガーマスクのデビュー45周年の記念イベントのトークショーで
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発言時期: 2026年4月28日
発言状況: 後楽園ホールで、前田日明・藤原喜明・藤波辰爾と並んだトークショーでの言葉です。これからの夢を聞かれ、「プロレスと格闘技、僕はあえて両方もっている。武道に近づけたい。礼儀正しく、しっかりした格闘技にしていきたい」と話したうえで、この言葉を続け、「まずはプロレスの再建から全力を尽くす」と結びました。
50「(初代虎誕生から)45年経った今もこうして(ファンの)皆さんの応援をいただいて本当に幸せです」
— 2026年8月27日、後楽園ホールの大会のあいさつで
この名言の背景を詳しく読む
発言時期: 2026年8月27日
発言状況: デビュー50周年とタイガーマスク45周年が重なった年の大会で、自分の足でリングに上がってあいさつしました。師のアントニオ猪木、恩人の新間寿、梶原一騎への感謝を語ったうえでの言葉です。
格闘技の世界で生きた人たちの言葉は格闘技の名言100選、猪木をはじめとするスポーツ選手の言葉はスポーツ選手の名言108選でも読めます。
よくある質問(Q&A)
Q1. 「これも技術のうち」の元ネタは?
佐山聡のシューティング合宿の映像です。練習生に「それから精神的なこと。これも技術のうち」「自分でやる気になること。これも技術のうち」と語りかける場面が、ネットで広まりました。
Q2. 「なめてんのか」と言われた練習生は誰?
ミットを蹴っていた阿部勇司さんです。2019年のインタビューで、合宿の動画の当事者として名乗り出ました。シューティングをしていたのは19歳の時だったそうです。
Q3. ハリウッドザコシショウのモノマネとの関係は?
2025年11月26日放送の『水曜日のダウンタウン』の替え歌最強トーナメントで、ハリウッドザコシショウが佐山聡のシューティング合宿をテーマにした替え歌を披露しました。
Q4. 佐山聡と佐山サトルは同じ人?
同じ人です。本人のブログは「初代タイガーマスク 佐山サトルのブログ」という名前で、近年の大会の報道でも佐山サトルの名前が使われています。
Q5. 佐山聡は何代目のタイガーマスク?
初代です。1981年4月23日、蔵前国技館のダイナマイト・キッド戦でデビューし、1983年8月まで務めました。二代目は三沢光晴です。
Q6. 「修斗」という名前の由来は?
本人のブログによると、相撲のような精神性を持つ武道にしたいという思いを込め、「斗いを修める」という意味で、シューティングから修斗に名前を変えました。