高橋尚子の名言70選!座右の銘「何も咲かない寒い日は」とシドニーの言葉
高橋尚子の座右の銘「何も咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ」は、高校の恩師から受け取った言葉。区間45位の高校生はこの言葉を口にしながら走り、シドニーで「すごく楽しい42キロでした」と笑いました。代表落選や引退会見の名言、小出監督への言葉まで、高橋尚子の名言70選です。
Writer
公式ライター Activel編集部
高橋尚子の座右の銘「何も咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ。やがて大きな花が咲く」は、本人が作った名言ではなく、高校の陸上部の恩師から教わった言葉です。駅伝で47人中45位に終わった高校生は、それから何百回、何千回とこの言葉を口にしながら走り、2000年のシドニーオリンピックで金メダルを取ります。この言葉がどこから来たのか、そしてアテネの代表から外れた年や、北京を目指した名古屋で27位に終わった後に何を語ったのかも、言葉が生まれた日の場面と一緒にたどっていきましょう。
高橋尚子のプロフィール
高橋尚子は、2000年のシドニーオリンピックの女子マラソンで、日本の女子陸上で初めての金メダルを取った選手です。翌2001年にはベルリンマラソンで女子として世界で初めて2時間20分を切り、2008年10月に現役を引退しました。Qちゃんの愛称で親しまれた高橋尚子の名言の多くは、無名の選手だった頃から、小出義雄監督と走った日々の中で生まれています。
基本プロフィール
高校時代は全国で目立った成績を残せなかった選手が、1995年に実業団に入り、1998年にはマラソンの日本最高記録を出しています。
| 項目 | 内容 |
|---|---|
| 生年月日 | 1972年5月6日 |
| 出身地 | 岐阜県岐阜市 |
| 身長 | 163cm |
| 出身校 | 県立岐阜商業高校・大阪学院大学 |
| 所属 | リクルート→積水化学→スカイネットアジア航空→ファイテン |
| 自己ベスト | 2時間19分46秒(2001年) |
| 主な成績 | 2000年シドニー五輪 金メダル |
| 国民栄誉賞 | 2000年10月30日 |
| 現役引退 | 2008年10月 |
| 愛称 | Qちゃん |
愛称のQちゃんは、1995年にリクルートの新入社員歓迎会で、アニメ「オバケのQ太郎」の主題歌に合わせて踊ったのがきっかけです。本人は2026年7月のテレビ番組で「決して似てるからじゃないですよ」と念を押していました。
岐阜の中学で陸上を始めてから2008年の引退までの歩み

陸上を始めたのは、岐阜市立藍川東中学校に入ってからです。県立岐阜商業高校の2年で初めて全国都道府県対抗女子駅伝に出た時の区間順位は、47人中45位でした。教員を目指して大阪学院大学に進み、卒業する1995年に、小出義雄監督が率いるリクルートに入社します。ここから、小出監督との二人三脚が始まりました。
- 1998年3月: 名古屋国際女子マラソンで、当時の日本最高記録の2時間25分48秒で初優勝
- 1998年12月: バンコクのアジア大会で、当時のアジア最高記録の2時間21分47秒で優勝
- 2000年9月: シドニーオリンピックで、2時間23分14秒の五輪最高記録で金メダル
- 2001年9月: ベルリンマラソンで2時間19分46秒の世界最高記録(当時)。女子で世界で初めて2時間20分を切る
- 2002年9月: ベルリンマラソンで2連覇し、マラソン6連勝
- 2003年11月: 東京国際女子マラソンで2位に終わり、マラソンの連勝が6で止まる
- 2005年5月: 小出監督のもとを離れ、「チームQ」として活動を始める
- 2008年10月: 現役を引退
2004年のアテネオリンピックは代表に選ばれず、2005年11月の東京国際女子マラソンで復活の優勝を果たしました。北京オリンピックを目指した2008年3月の名古屋国際女子マラソンは27位で、その年の10月に引退を発表しています。引退後はスポーツキャスターやマラソンの解説を務めながら、日本陸上競技連盟と日本オリンピック委員会の評議員として陸上に関わっています。
座右の銘「何も咲かない寒い日は下へ下へと根を伸ばせ」
高橋尚子の座右の銘は、県立岐阜商業高校の陸上部の中澤正仁監督から教わった3つの言葉です。2020年のインタビューで、本人は「3つの言葉はいまでも座右の銘になっています」と話しています。3つの言葉は次のとおりです。
- 1つ目: 「何も咲かない寒い日は、下へ下へと根を伸ばせ。やがて大きな花が咲く」
- 2つ目: 「疾風に勁草を知る」。強い風の日こそ強い木がわかる、と教わった言葉
- 3つ目: 「丸い月夜も一夜だけ」。いいときがあっても浮かれていてはいけない、という戒め
1つ目の言葉は、高校2年の都道府県対抗女子駅伝で区間45位に終わった後、結果の出ない時期を支えた言葉でした。本人は「この練習が力になるのだろうか」と不安になるたびにこの言葉を思い出し、「いまはがまんして地にしっかり根をはるとき。この練習は無駄じゃない」と、何百回、何千回と繰り返し口にして、心を切り替えてきたと振り返っています。
では、「何も咲かない寒い日は下へ下へと根を伸ばせ」は誰の言葉なのか。中澤監督は、山梨学院大学の選手として1987年の箱根駅伝で6区を走った人で、その時の監督が上田誠仁さんです。その上田さんも、毎年手帳の1ページ目に、言い回しは少し違うものの同じ3つの言葉を書いてきました。2026年5月のコラムで上田さんは、1つ目の言葉を京都の大徳寺の僧侶、尾関宗園さんの著書から引いたと明かしています。元三洋電機副社長の後藤清一さんの言葉として紹介されることもありますが、後藤さんの著書『リーダーズノート』にこの言葉があるかは、Activel編集部では確かめられませんでした。
高橋尚子の名言70選
高橋尚子は、高校時代に教わった「何も咲かない寒い日は」を胸に走り続け、シドニーオリンピックのゴールの後には「すごく楽しい42キロでした」と笑顔で話しました。引退会見で「陸上人生に悔いはない」と言い切るまでの名言は、勝った日だけでなく、負けた日や走れなかった年にも生まれています。
高校・大学から名古屋の初優勝までの名言
高校時代の高橋尚子は、全国で目立った成績を残せなかった選手でした。大学で初めて全国のタイトルを取った後、大学4年の夏には、小出監督に「ウチは大学生を採らないから」と断られても、自分のお金で合宿に加わり、先頭を走り続けてチームに入っています。
01「誰しも一気には強くはならないけれど、毎日、少しずつ努力することはできるんです。」
— 2020年のインタビューで、中学2年から毎日3本多く走った練習について
02「本当に悔しい思いをしましたが、その結果は当時の実力だったと思います。その後も一気に飛躍したわけではなく、少しずつ積み上げて、成績を上げていきました。」
— 2017年のインタビューで、高校2年の駅伝の区間45位を振り返って
03「高校時代に言われたんです。『お前には走る素質はない。でも頑張る素質はあるぞ』って。それがすごく嬉しかったんです。」
— 2017年のインタビューで、自分の成長を振り返って
04「その時の金メダルよりも、小出監督に『来るかい?』と言われたことが人生を変えた。私の人生で一番の勝利の瞬間だったと思います。」
— 2025年のインタビューで、1994年夏の合宿の最終日を振り返って
05「とりあえず、自分ができることを一生懸命にやろうと思いました」
— 2025年のインタビューで、1995年のリクルート入社直後を振り返って
06「自分を捨てなきゃいけないと思いました。だから監督の言うことを100パーセント聞き入れて、それを忠実に実践することに集中したんです。」
— 2017年のインタビューで、結果の出なかった実業団1年目について
07「私、意外とビビリなんですよ。97年に初めて出場した世界陸上では、5000メートルの決勝に進めたんですけど……スタートラインに立ったら、緊張で足が全く動かなくなっちゃって。」
— 2017年のインタビューで、1997年のアテネの世界陸上を振り返って
08「一番苦しい時が一番伸びる時だと思ったんです。この練習を抜いたら、越えられるはずの壁を越えるのを延期することになってしまう。」
— 2025年のインタビューで、積水化学時代の練習を振り返って
09「こちらから見ると断崖絶壁だけど、反対側から見るとなだらかな坂だということがありますよね。」
— 2012年ごろのインタビューで、4日で40kmを3回走る練習の乗り切り方を聞かれて
10「(日本最高)記録が出せてうれしい。マラソンは楽しい」
— 1998年3月8日、名古屋国際女子マラソンでマラソン初優勝の後に
11「最初から足が動いた。日本最高だけは出さないともったいないと思って最後までいった」
— 1998年12月6日、バンコクのアジア大会で優勝した後に
12「不安になる時間があるなら腹筋を50回した方が力になる」
— 2020年のインタビューで、1998年のアジア大会の前の気持ちを振り返って
13「運がよければ世界一になれると、私は思ってはいません。腹筋でもなんでも、何かしらの努力を世界一やってきた人がその栄光をつかめるのかなと思います。」
— 2020年のインタビューで、シドニーまでの日々を振り返って
14「いい記録を1回出しても、継続して結果を出せなかったら元に戻ってしまうかもしれない。それが怖いから頑張り続けないといけない。」
— 2025年のインタビューで、1998年に日本記録を出した後の気持ちを振り返って
シドニーオリンピックの「すごく楽しい42キロでした」
2000年9月24日のシドニーオリンピックの女子マラソンで、高橋尚子は34km過ぎにサングラスを投げてスパートし、ルーマニアのリディア・シモン選手を振り切って優勝しました。勝負を決めたサングラスは、小出監督に渡すつもりが見つからず、沿道の父に向けて投げたものでした。
15「少しずつ階段を上って、ようやくオリンピックへの道にたどりついた。やるからには一番いい成績を取りたい」
— 2000年3月13日、シドニーオリンピックの代表に決まって
16「明日の表彰式は、どのジャージーを着ていけばいいんでしたっけ?」
— 2000年9月23日、レースの前日に小出監督に
17「『この中で私ほど腹筋をしてきた人はいない!』。そう思ったら、緊張で足がすくむこともありませんでした。」
— 2020年のインタビューで、オリンピックのスタートラインを振り返って
18「『あの人はもう負けているな』などと客観的に見られるほど余裕がありました。」
— 2025年のインタビューで、スタート前の控室を振り返って
19「出し惜しみせずに前に出て、自分のレースにしてしまおう。このまま行っちゃえと切り替えました」
— 2025年のインタビューで、17.5km地点で前に出た場面について
20「監督が見当たらなかったので、どうしようとキョロキョロしていたら、身内というか親がいるのがわかったので、親のほうへ思いっきり投げたんです。」
— 2000年9月24日、レースの後にサングラスを投げた場面について
21「すごく楽しい42キロでした」
— 2000年9月24日、シドニーオリンピックで優勝した直後に
22「途切れることのない声援が私を後押ししてくれました。42.195kmがとても短く感じられました」
— 2000年9月24日、ゴールの後のテレビのインタビューで
23「今会えてよかったです。無事にゴールにたどりつけました。ありがとうございました」
— 2000年9月24日、ゴールの後に小出監督と会って
24「終わっちゃった」
— 2000年9月24日、ゴールの後に小出監督へ短く報告して
25「これは、指導してくれた監督、助けてくれた方々など皆の力が結集して生まれた金メダル。私は選手の役割を受け持っただけ」
— 2000年9月24日、金メダルの後の言葉として日本オリンピック委員会が伝えた
26「目標がなくなって、これで終わってしまったのだなという寂しいような、ほっとしたような気持ち。」
— 2000年9月24日、レースの後の記者会見で金メダルの実感を聞かれて
27「もう1周あったら負けていたかもしれません」
— 2000年9月24日、トラックで最後に迫ったシモン選手について
28「なぁんだ、ここに落ちていたのか」
— 2000年9月25日の朝、見当たらなかった金メダルを床に見つけて
29「とっさに出た言葉だったんです。スタート位置に立つまで、練習は1ミリも妥協することなく完璧にこなせていたし、世界一厳しい練習をしてきた自負があったので、早く走りたくてウズウズしていました。」
— 2021年のインタビューで、「すごく楽しい42キロでした」について
30「(受賞には)うれしさと不安が入り交じっていたが、この賞をばねにもっと上を目指したい」
— 2000年10月30日、国民栄誉賞を受けて
31「私自身は弱い選手ですし、練習をやらないと弱い自分に戻ってしまうので、すぐに練習したいと思っていました。」
— 2025年のインタビューで、金メダルの後のQちゃんフィーバーを振り返って
ベルリンの世界記録から引退会見までの名言
シドニーの翌年に世界記録を出した高橋尚子は、その後、アテネオリンピックの代表から外れ、小出監督のもとを離れて自分のチームで走る道を選びます。2003年の東京国際で連勝が止まり、2004年はけがでマラソンを走れない年になりました。
32「五輪の金メダルと世界最高は2つの夢だった。2つ目を達成できてよかった」
— 2001年9月30日、ベルリンマラソンで世界最高記録を出して
33「人と争うというより自分のスピードの限界に挑戦するという気持ちで、世界記録へ向けてスタートしました。」
— 2001年9月30日、ベルリンマラソンのレースの後に
34「負けることとか、負けても一生懸命やることが恥ずかしいことでは、絶対にないと思う。たとえ負けたとしても、何かに向かって全力でがんばることが、一番大事だと思います」
— 2001年9月30日、ベルリンマラソンの後にほかの選手へ向けて
35「私は東京を走るために準備してきたので、最初は『出られません』と言ったんです。」
— 2025年のインタビューで、2002年のベルリン出場を勧められた時について
36「本当に調子がよくて、監督からも『すごいの出してやれ』と言われて、イケイケどんどんみたいな感じになってしまって……。」
— 2025年のインタビューで、2003年11月の東京国際を振り返って
37「選ばれなかった時は、監督に申し訳ないという気持ちが一番大きかったです。」
— 2025年のインタビューで、アテネオリンピックの代表から外れた時を振り返って
38「それでも、この年は一番うれし涙を流したんです。多くの方から励ましのお手紙をいただいて、メディアの皆さんも温かい言葉をかけてくれて、こんな私でも応援してくれるんだと思うと、涙が止まらなくて……。」
— 2025年のインタビューで、けがでマラソンを走れなかった2004年を振り返って
39「小出監督の下を卒業し、独自で競技の道を歩むことに決めました」
— 2005年5月、小出監督のもとを離れる記者会見で
40「不安がないと言えばウソになるが、これからの自分の人生にワクワクしている」
— 2005年5月9日、小出監督のもとから独立して
41「ぬるま湯につかっている感じで、このままだと次に進めないという危機感が大きかったです。」
— 2025年のインタビューで、2005年の独立を決めた時を振り返って
42「オセロゲームで黒だった部分をすべて白に変えた気分」
— 2005年11月20日、東京国際女子マラソンで復活の優勝をして
43「自分でも夢かなと思った。体が動かず、おかしいなと思った」
— 2008年3月9日、名古屋国際女子マラソンで27位に終わって
44「夏からやってきた今の実力がこれです。ここをこうしておけば、あの時こうしておけばということが今は見当たらない」
— 2008年3月9日、名古屋国際女子マラソンの後に
45「引退の声もありますが、まだまだやりたいことがある。もう少し走らせてください」
— 2008年3月9日、名古屋国際女子マラソンの後の記者会見で
46「命をかけてやるもの」
— 2008年3月9日、記者会見でマラソンとは何かを聞かれて
47「プロ高橋として納得のいく走りができなくなり、精神的、肉体的に、これが限界なのかなと自分で感じた。陸上人生に悔いはない」
— 2008年10月28日、現役引退を発表した記者会見で
48「台風のごとく、いろんなことが過ぎ去って、引退まで悩みました。今は、台風が過ぎ去った後のさわやかな風が吹いているような心境」
— 2008年10月28日、引退会見で今の心境を聞かれて
49「私にとって陸上は自分自身を成長させてくれるものだったと思います。本当に陸上をしてきて良かったと、心から思います。」
— 2008年10月28日、引退会見で競技人生を振り返って
50「陸上、マラソン選手は一人で走れるわけではありません。」
— 2008年10月28日、引退会見で沿道のファンへのメッセージに
引退後の名言
引退した翌年からスポーツキャスターの仕事を始めた高橋尚子は、解説や講演、パラスポーツや海外での陸上教室など、走る以外の場でも言葉を残しています。
51「私は器用ではないので、キャスターもすぐにはうまくはなりません。少しずつ、少しずつ学んで、落ち込んで、今は大学生くらいのレベルになったかな、ようやく実業団に入っていく頃かなと、そのようなことを思いながら過ごしてきた感じです。」
— 日本オリンピック委員会のインタビューで、キャスターの仕事について
52「今振り返ると、人生には失敗のほうがプラスになっていることが多いです。失敗した経験がなければ選手にも声をかけられないし、その思いにも寄り添えない。」
— 同じインタビューで、これからの人へのメッセージに
53「私は『走るのが楽しい』という気持ちでつらい気持ちを越えられました。」
— 同じインタビューで、つらい時のモチベーションについて
54「目標を達成するいちばんの近道は、今日、何ができるかを考えて行動に移すこと。」
— 2017年のインタビューで、30代の独立と引退を振り返った最後に
55「一方で、輝きを増していくのは、そこで培った人とのつながり。前を向いて人生を続けていく上で、やっぱり自分が得た一番大事なものは人だ、という想いが強くなっています。」
— 2019年のインタビューで、金メダルと人とのつながりについて
56「スポーツはする・見る・学ぶ・支える。2020東京五輪・パラリンピックがアスリートにとって最高の大会となるとともに、全国の子どもたちに深く興味を持ってもらい、日本を笑顔でいっぱいにしましょう」
— 2020年2月3日、東京2020組織委員会のアスリート委員会の委員長として
57「パラスポーツに対して一歩踏み出すことは、自分の認識や価値観、そして可能性を広げていくチャンス。」
— 2023年、理事長を務めるパラスポーツの団体のインタビューで
58「小さな一歩も必ず誰かの人生を照らす光になります。」
— 2025年7月、国際協力機構(JICA)の海外協力隊の広報誌で、活動に悩む隊員へ
59「仕事やプライベートで壁にぶつかったとき、限界に挑戦する選手たちの姿を見れば、『私ももう少しがんばってみようかな』と勇気をもらえるはず。」
— 2025年9月、東京の世界陸上の開幕の日のインタビューで
60「楽しいからです。私の財産は金メダルではなく、それを通じていろいろな人に出会えたこと。それは走らないと得られないものでした。『楽しい』が私の原点なのです。」
— 2025年のインタビューで、なぜ走ってきたのかを聞かれて
61「誰もが自分らしい走りを楽しめる大会を一緒に盛り上げましょう!」
— 2026年4月、さいたまマラソンのアンバサダーに就いて
小出監督との言葉
小出義雄監督は、無名だった大学生の高橋尚子を採り、シドニーの金メダルとベルリンの世界記録まで導いた監督です。小出監督について高橋尚子が話した言葉には、練習の日々の思い出から、2019年4月に監督が亡くなった時の言葉まであります。
62「監督が私を見つけてくれた。監督が私にとってすべて。だから、五輪に出て恩返しをしたいと思っていました」
— 2025年のインタビューで、シドニーまでの日々を振り返って
63「小出監督のすごいところは、親身になってくれるところ。」
— 2019年のインタビューで、小出監督の指導について
64「オリンピックで勝つには『監督を信頼する』だけではダメなんです。」
— 2019年のインタビューで、シドニーに向けた監督との練習について
65「人間関係って、いかに自分をアピールして、相手からのサポートを引き出すか、ですよね。」
— 2019年のインタビューで、監督との人間関係について
66「本当に今あるのは、小出監督がここまで育ててくださったおかげで、五輪とか世界記録を出させてくださったのは、すごく大切な時間であり、本当に大切な方です。」
— 2008年10月28日、引退会見で小出監督について聞かれて
67「五輪でメダルがとれたのも世界記録を出せたのも、今の自分があるのも小出監督のおかげです。」
— 2019年4月24日、小出監督が亡くなった日のコメントで
68「監督、高橋です。Qです。つい先日まで、そうやって呼びかけると『おう。声で分かるよ』。そうやって返してくださる声も、手を握り返してくださることも、もうないというのは信じられません。」
— 2019年4月29日、小出監督の告別式の弔辞の始めに
69「最後は泣くな。笑って送れよ。そう言われました。たくさんのみなさんが今日、監督を送りに、そして会いに来ていらっしゃいます。私も明日からは、笑顔で前を向きます。」
— 2019年4月29日、同じ弔辞で
70「人を大切にすること、周りに感謝すること、そして走る楽しさを伝えること。監督の教えを忘れることなく胸に刻んで歩いて行きます。ずっと気にしていた東京オリンピックも、空の上でビールでも飲みながら見守っていてください。私の中で監督は永遠です。本当にありがとうございました。」
— 2019年4月29日、弔辞の結びに
高橋尚子と同じ時代にマラソンを走った野口みずきさんや有森裕子さんの言葉も、マラソン選手の名言40選!長距離ランナーの努力とかっこいい言葉・格言という名言集にあります。同じ頃に日本の陸上を引っ張った室伏広治さんの言葉は室伏広治の名言30選で、短距離や投てきの選手の言葉は陸上選手の名言100選で探せます。
よくある質問(Q&A)
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