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嘉納治五郎の名言47選!精力善用・自他共栄の意味と柔道の父の言葉

嘉納治五郎の名言47選!精力善用・自他共栄の意味と柔道の父の言葉

柔道を作った嘉納治五郎は、技の強さより、身につけた力を何のために使うかを説き続けました。道場に掲げられる精力善用・自他共栄も、その考えを本人が言葉にした名言です。勝ち負けや生き方を本人が書いた嘉納治五郎の名言は、稽古や毎日の支えにもなってくれます。

2026.10.31 | 格闘技

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公式ライター
Activel編集部

道場に掲げられた「精力善用」「自他共栄」の額を見て、どんな意味だろうと思ったことはありませんか。この2つは、明治時代に柔道を作った嘉納治五郎が、柔道を学ぶ人と社会に向けて掲げた言葉です。

嘉納治五郎の名言には、技の強さよりも、身につけた力を何のために使うかを問うものが多くあります。勝っても負けても道に従えと説いた言葉や、一人の決心は千万人を動かすという言葉も、本人が雑誌や本に書いた文の中に残っています。嘉納治五郎の名言を、書かれた年と一緒にたどっていきましょう。精力善用・自他共栄を本人がどう説明したのか、よく知られた「人に勝つより自分に勝て」は本当に本人の言葉なのかも確かめます。

嘉納治五郎のプロフィール

嘉納治五郎は、古くからの柔術を学んで技と理論をまとめ直し、1882年に講道館を開いて柔道を作った人です。高等師範学校(のちの東京高等師範学校、今の筑波大学)の校長を長く務めた教育者でもあり、1909年にはアジアで初めて国際オリンピック委員会(IOC)の委員になって、日本がオリンピックに出る道を開きました。

基本プロフィール

嘉納治五郎は江戸時代の終わりに今の神戸市で生まれ、明治・大正・昭和の3つの時代を生きました。

項目 内容
名前 嘉納治五郎(かのう じごろう)
生まれ 1860年(万延元年)10月28日(新暦では12月10日)
出身 摂津国御影村(今の兵庫県神戸市東灘区)
学んだ柔術 天神真楊流・起倒流
作ったもの 講道館柔道(1882年)
主な役目 高等師範学校の校長・IOC 委員・大日本体育協会の初代会長
亡くなった日 1938年5月4日(77歳)

柔術から講道館柔道を作り、教育とオリンピックに力を尽くした歩み

嘉納治五郎の歩みと名言の年表。1860年の生まれ、1882年の講道館、1909年の IOC 委員、1922年の精力善用・自他共栄、1938年まで

子どもの頃から体が弱く、なんとか強くなりたいと考えた嘉納治五郎は、東京大学に入った1877年に天神真楊流の福田八之助に入門し、続いて起倒流も学びました。いくつもの流派のよさを取り入れ、自分の工夫を加えて技と理論をまとめ直し、1882年5月、東京・下谷の永昌寺に講道館を開きます。教えるのは術ではなく自分を完成させる道だとして、柔術を柔道と改め、その道を講ずる所という意味で講道館と名づけました。

1893年からは高等師範学校の校長を3回にわたって務め、1920年まで教育の現場に立ち続けます。学校に体操科を置いて体育の先生を育てたことなどから、嘉納治五郎は「日本体育の父」とも仰がれる、と講道館は紹介しています。1909年には IOC の会長クーベルタンの求めでアジアで初めての IOC 委員になり、1911年に大日本体育協会を作って初代会長に就きました。翌1912年のストックホルム大会には、予選会で選ばれた短距離の三島弥彦とマラソンの金栗四三とともに団長として参加し、日本は初めてオリンピックに出場しました。

1922年、柔道で学ぶ心と体の使い方を社会に生かそうと講道館文化会を作り、精力善用・自他共栄を広めていきました。オリンピックでは、1940年の大会を東京で開くことが1936年に決まりました。嘉納治五郎は1938年3月、カイロでの IOC 総会でその開催を確かめます。その帰り道、同じ年の5月4日に、日本へ向かう氷川丸の船上で肺炎のため77歳で亡くなりました。嘉納治五郎が力を尽くした東京大会は、その後の国際的な争いのために開かれずに終わっています。

嘉納治五郎が始めた柔道が、その後どう広まっていったかは、柔道の歴史を年表でたどる記事で詳しく見られます。

座右の銘

嘉納治五郎は、「人生行路 唯有一耳」(人生の行路、ただ一つあるのみ)という八字の言葉を自分で作り、普段から人に示していたと、本人が文に残しています。成功の絶頂にいても失敗の底にいても、進むべき道は一つで、その時に一番善いと思う道を選べばよいという教えです。講道館も、これを嘉納治五郎の言葉の一つとして伝えています。ただし、本人がこれを座右の銘と呼んだ記録は、講道館が公開している本人の言葉や年表の中には見当たりません。

嘉納治五郎の名言47選と精力善用・自他共栄の意味

嘉納治五郎の名言の多くは、本人が柔道を学ぶ人に向けて、講道館が出していた雑誌『柔道』『有効の活動』などに書いた文の中にあります。精力善用・自他共栄の意味から、柔道は技ではなく道だという考え、勝ち負けとの向き合い方、人がどう生きるべきかまで、柔道をしない人の毎日にも通じる言葉が残っています。講道館の公式サイトの師範の言葉でも、これらの言葉を本人の文の題・雑誌・年と一緒に読めます。

精力善用・自他共栄とは何か、嘉納治五郎が書いた言葉

精力善用とは、何かをする時に、その目的のために心と体の力をいちばん有効に使うことです。自他共栄とは、社会の一人ひとりが助け合い譲り合って、自分も他人も一緒に栄えることです。嘉納治五郎は、力をよく使うだけでなく、その力を善いことのために使い、周りの人と一緒に栄えることを、柔道の修行の目的にも社会の理想にも据えました。自他共栄の意味を、嘉納治五郎は旅にたとえています。三人で旅をする時、一人は山へ行きたい、一人は海へ行きたい、一人は休みたいと言い張れば、別れ別れになるしかありません。一緒に旅をする良さを望むなら、互いに譲りあって、皆がおおむね満足できる一致点を選ぶしかない、というのです。

01「何事をするにも、その目的を達するために精神の力と身体の力とを最も有効に働かす、ということである」

— 1922年、雑誌『大勢』第1巻第1号の「精力の最善活用」で

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書いた時期: 1922年(大正11年)。この年の1月に、嘉納治五郎は講道館文化会を作っています

書いた場面: 精力善用とは何かを説いた「精力の最善活用」の中の言葉です。嘉納治五郎はこの後、心身の力を最も有効に使うことは柔道の攻撃防禦のあらゆる場合に一貫した原理であり、簡単に言えば精力の最善活用、さらに短く言えば精力の善用だと続けます。そして、これは柔道の修行で最も大切な教えであると同時に、人生のさまざまな目的を果たすためにも必要な教えだと書きました。

出典: 講道館公式「精力善用とは」

02「柔道の根本義は、精力の最善活用である。言い換えれば、善を目的として精力を最有効に働かせることである。」

— 1936年、雑誌『柔道』第7巻第2号の「柔術と柔道の区別を明確に認識せよ」で

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書いた時期: 1936年(昭和11年)。亡くなる2年前です

書いた場面: 柔術と柔道の違いを説いた文で、嘉納治五郎はこの言葉に続けて、善とは何かという問いに答えています。団体生活の存続発展を助けるものが善で、それを妨げるものが悪だと書きます。そして、社会生活の存続発展は互いに助け、互いに譲る相助相譲(そうじょそうじょう)と自他共栄によって果たされるのだから、相助相譲・自他共栄もまた善だというのです。ここまで説いたことを、嘉納治五郎は柔道の根本義としました。

03「精力善用と自他共栄は、社会生活の根本原則である」

— 1935年、雑誌『柔道』第6巻第3号の「柔道に関する私の抱負」で

04「自他共栄を旨(むね)として、精力を善用する」

— 1935年、雑誌『柔道』第6巻第3号の「柔道に関する私の抱負」で

05「自分も栄え、他人も栄えるということが、社会生活の理想でなければならぬ」

— 1931年、本『柔道教本』上巻で

06「社会の各成員が互いに助け合い譲り合って、自分も他人も栄えるという事が人間社会の理想であって、だれもが反対する事の出来ぬ原理である。」

— 1925年、雑誌『作興』第4巻第2号の「講道館文化会の使命とその会員に対する希望」で

07「人が人として社会生活を全うし、存続発展していくには、自他共栄の主義以外にはあるべきでない」

— 1925年、雑誌『作興』第4巻第12号の「なにゆえに精力最善活用・自他共栄の主張を必要とするか」で

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書いた時期: 1925年(大正14年)

書いた場面: なぜ精力善用・自他共栄を唱えるのかを説いた文です。ただ他人のために尽くせと言っても尽くす理由がなく、自分の都合ばかりをはかれば他人とぶつかって、ついには自分が破滅する。そう考えてくると、どうしてもこの言葉に行き着く、という流れで書かれています。この文で三人旅のたとえを書いた後、嘉納治五郎は話を国全体に広げます。つまらない争いをやめて、自他共栄の考えであらゆる力を最善に使えば、国の力は今の何倍にもなり、国と国との関係も円満になって、人類全体の幸せも増すと確信している、と結んでいます。

08「柔道を修める者は、柔道の根本原理たる精力善用を寸時も忘れてはならぬ」

— 1931年、本『柔道教本』上巻で

09「何事をするにも一番善い目的を描き出して、その目的を遂行するために心身の力を最も有効に使用する。精力最善活用・精力善用ということが今日の柔道である。」

— 亡くなった翌年の1939年に出た本『大日本柔道史』の「柔道の根本精神」で

10「柔道の修行者は、おのおの社会に対して大使命を有するのであるということを自覚し、精力善用・自他共栄の精神をその身に実行してもらいたい」

— 1931年、雑誌『柔道』第2巻第10号の「柔道の使命を論じて修行者の融和結束を望む」で

11「形や乱取の(略)修行の結果、精力善用自他共栄の原理を体得し、人生すべての問題を解決することが出来る」

— 1933年、雑誌『柔道』第4巻第2号の「柔道の真意義を天下に宣伝する必要を論ず」で

「人に勝つより自分に勝て」は嘉納治五郎の言葉か

「人に勝つより自分に勝て」は、嘉納治五郎の名言として紹介されることがありますが、講道館が公開している本人の言葉や、当時の本の中には見当たりません。この言葉が出てくるのは、1960年代のフジテレビの「姿三四郎」の主題歌の歌詞です。関沢新一が作詞し、村田英雄が歌いました。柔道の修行に励む若者が、この言葉を胸に、つらくても弱音を吐かずに進む姿が歌われています。

「人に勝つより自分に勝て」の意味は、相手に勝つことより、弱音を吐きたくなる自分の心に勝つことが大切だ、ということです。嘉納治五郎が自分で書いたものでは、「目前の勝ち負けに重きを置いてはならぬ」や「勝つも誇らず、負くるも撓まず」が、この言葉と同じ考えを表しています。「人に勝つより自分に勝て」のほかにも、「人生には『なにくそ』という精神が何より必要だ」という言葉や、「自分が亡き後は、白帯を付けて埋葬してくれ」と言ったという話は、嘉納治五郎の言葉として出回っていても、本人の文や講道館の記録では確かめられません。

柔道は技から道へ進むものだという言葉

柔道の本当の目的は技を覚えることではなく、道を身につけることだと、嘉納治五郎は何度も書き残しています。投げ技や固め技の練習は、心と体の力をいちばんよく使う道を体で覚えるための手段で、その道は武術にも体育にも、毎日の暮らしにも通じるという考えです。柔術を柔道と改めたのもこのためで、講道館を開いてから40年たった1922年にも、技より入って道に進めという言葉を掲げました。教える人に向けては、教えを自分の行いで示すことを求めています。

12「柔道は心身の力を最も有効に使用する道である」

— 1918年、雑誌『柔道』第4巻第9号の「初秋の辞」で

13「何事をするも、そのことを完全に仕遂げようと思えば、その目的を果たすために心身の力を最も有効に働かすにあるという一貫した大道を捉えることである。この大道を私は柔道と命名したのである。」

— 1932年、雑誌『柔道』第3巻第1号の「いかにすれば今日の柔道を国民の柔道となし得るか」で

14「柔道の修行者は道を体得することが本当の目的であって、技術の練習は手段であるということを忘れてはならぬ。」

— 1932年、雑誌『柔道』第3巻第1号の「いかにすれば今日の柔道を国民の柔道となし得るか」で

15「技より入って道に進め」

— 1922年、雑誌『柔道』第1巻第8号の「宣言・綱領」で

16「柔道は道である」

— 1933年、雑誌『柔道』第4巻第2号の「柔道の真意義を天下に宣伝する必要を論ず」で

17「柔道と言うものは、大きな、普遍的な道である。そしてそれを応用する事柄の種類によって色々の部門に分かれ、武術ともなり、体育ともなり、智育徳育ともなり、実生活の方法ともなるのである。」

— 1929年、雑誌『作興』第8巻第11号の「柔道と競技運動」で

18「柔道の原理は、これを体育に応用すれば、最も強健なる身体を作り、これを衣食住や社交の改善に応用すれば、国民の幸福を増進し、経済をゆたかにし、これを各般の事業に応用すれば、その事業の成績を挙げ、各個人の力を充実せしめ、国力を新興せしむることになる。」

— 1925年、『柔道年鑑』の「講道館柔道の使命」で

19「柔道の終局の目的とは、(略)人間の終局の目的であって、予はこれを、己を完成し世を補益するにあると説いている」

— 1919年、雑誌『有効の活動』第5巻第9号の「柔道修行者の任務」で

20「柔道の教師は、柔道の教えを己の行いに実現するを要す」

— 1919年、雑誌『有効の活動』第5巻第10号の「柔道教師に対する希望」で

21「教育者自身が教育の大事なることを信じ、教育を通して国家社会に働いてこそ、教育者の活動も有意義である」

— 1941年に講道館が出した伝記『嘉納先生伝』に載る、師範教育(先生を育てる教育)についての本人の話で

道場の稽古と勝ち負けについての言葉

嘉納治五郎は、柔道が勝ち負けを争う修行であることを認めながら、目の前の勝ちにこだわりすぎることを何度も戒めています。1922年には、道に従って負ければ、道に背いて勝つより価値があると書き、この教えは講道館で順道制勝という言葉で伝えられています。負けることを恐れずに攻め、いろいろな技を試せという、道場で稽古する人への具体的な言葉もあります。よく知られた「柔よく剛を制す」は、もとは中国の古い兵法書『三略』にある言葉です。講道館によると、嘉納治五郎は、柔術がこの言葉で表してきた「柔」の考え方を出発点にして、心と体の力をいちばん有効に使うという精力善用の原理へと進みました。1935年の文には、自分でも「柔能く剛を制す」と書き残しています。

22「柔道は一面、勝負の修行であるけれども、また同時に身体の鍛練法でもあり、智徳の修養法でもある。」

— 1922年、雑誌『有効の活動』第8巻第2号で

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書いた時期: 1922年(大正11年)

書いた場面: 講道館柔道の文化的な精神を説いた文です。近ごろの学校どうしの対抗試合を見ると、柔道の高い目的を忘れ、目の前で勝つか負けるかが柔道の目的であるかのように思い違いをしているのではないか。嘉納治五郎はそう心配していました。そのうえで、柔道が身体の鍛練法でも智徳の修養法でもある以上、修行を積んだ結果、勝負に強くなると同時に、ほかの目的も果たせるのでなければならないと続けました。

23「勝つにしても道に順(したが)って勝ち、負けるにしても道に順って負けなければならぬ。負けても道に順って負ければ、道に背いて勝ったより価値があるのである。」

順道制勝(じゅんどうせいしょう)

— 1922年、雑誌『有効の活動』第8巻第2号で

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書いた時期: 1922年(大正11年)

書いた場面: 学校どうしの対抗試合の仕方を論じた所の言葉です。一方が攻めると相手は逃げてばかりいて、互いに技をかける機会がないような対抗試合は、体育として価値がないばかりか、学校どうしの不和のもとになる、と嘉納治五郎は見ていました。そして、勝ち負けは主な目的ではなく、試合を通して自分の実力を磨き、他校の人と技を闘わせて互いに楽しみ、相手の精神や態度に及ばない所があれば学ぼう、という心で試合をしなければならないと説きました。

24「将来、大いに伸びようと思う者は目前の勝ち負けに重きを置いてはならぬ」

— 1920年、雑誌『有効の活動』第6巻第4号の「柔道の修行はなるべく高遠なる目的をもってするがよい」で

25「勝つも誇らず、負くるも撓(たわ)まず」

— 1913年、本『柔道概要』の「柔道概説」で

26「勝ってその勝ちに傲(おご)ること無く、負けてその負に屈すること無く、易(やす)きに在て油断すること無く、危きに在て恐るることなく、唯々(ただただ)一筋の道を踏み行け」

勝ツテソノ勝チニ傲ルコト無ク負ケテソノ負ニ屈スルコト無ク易キニ在テ油斷スルコト無ク危キニ在テ恐ルヽコトナク唯々一筋ノ道ヲ踏ミ行ケ

— 1889年5月、大日本教育会での講演「柔道一班並ニ其教育上ノ価値」で

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話した時期: 1889年(明治22年)5月11日。講道館を開いてから7年がたった頃です

話した場面: 柔道とその教育上の値打ちを説いた講演の最後に、嘉納治五郎は、勝負で最も大切な心得の一つであり、柔道の奥義でもある教えとして、この言葉を紹介しています。勝ったからといっておごっていると、また負けることがあるので、勝った後でも気持ちを込めて勝負をしなければならず、負けたからといって縮こまっても何の益もない、と続けました。講演の記録は、有馬純臣の本『柔道大意』(1905年)などに収められています。

出典: 国立国会図書館デジタルコレクション『柔道大意』

27「目前の勝ちを制せんがために武術とし体育として正しい修行の仕方を傷つけるようなことをしてはならぬ」

— 1935年、雑誌『柔道』第6巻第6号の「乱取の練習および試合の際における注意」で

28「終局の目的は勝つことにあってもそこに到達する順序としては、負ける練習もし、また負ける恐れはあっても、進んで攻勢に出て種々(しゅじゅ)の技を試みて、自分の体を鍛錬しなければならぬ」

— 1936年、雑誌『柔道』第7巻第6号の「道場における修行者に告ぐ」で

29「自然体の姿勢を守り、全身にはもちろん、手足などの局部にも力を入れず、きわめて凝(こ)らず固まらず、自由自在に動作の出来るように、身体を扱い得るように練習しなければならぬ」

— 1936年、雑誌『柔道』第7巻第6号の「道場における修行者に告ぐ」で

30「最善を尽くせよ 最善を尽くした上での勝敗は男子の本懐(ほんかい)なり」

— 1912年、『東京高等師範学校校友会誌』32号で

31「柔能(じゅうよ)く剛を制す」

— 1935年、雑誌『改造』第17巻第6号の「柔道真髄」で

32「上段の柔道に至っては、下段中段の柔道において得たる身体精神の力を最も有効に使用して、世を補益する場合をいう」

— 1918年、雑誌『柔道』第4巻第7号の「柔道に上中下三段の別あることを論ず」で

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書いた時期: 1918年(大正7年)

書いた場面: 嘉納治五郎はこの文で、柔道を上・中・下の3つの段に分けています。下段の柔道は攻撃防禦の方法を練習すること、中段の柔道は練習のいろいろな機会を使って精神を修養し、体も心も自分の思うように動かせるようになることだと書きました。その上にある上段の柔道は、下段と中段で身につけた力を、世の中の役に立てるために使うことだとしています。

人はどう生きるべきかを書いた言葉

嘉納治五郎は、柔道を学ぶ人だけでなく、若い人や社会に出る人に向けても、どう生きるべきかを書き残しました。人の値打ちはどれだけ世の中のために尽くしたかで決まる、生まれてきたからには抱負を持て、という言葉には、精力善用・自他共栄と同じく、自分の力を人と社会のために使えという考えが通っています。一人の決心は千万人を動かすに足るという言葉は、一人や二人では世の中の風潮をどうにもできないという声に答えて、柔道を学ぶ人に決心をうながした言葉です。

33「生まれ甲斐のある人となれ」

— 1898年、雑誌『国士』第1巻第1号の「生れ甲斐のある人となれ」で

34「人は、この世に生(う)まれた以上、抱負がなければならぬ」

— 1929年、雑誌『作興』第8巻第1号の「講道館の抱負とその実現の方法」で

35「すべての環境がその人を造る」

— 1922年、雑誌『大勢』第1巻第1号の「精力の最善活用」で

36「全ての人の真価は、その人の一生涯にどれほどの貢献を世のためにしたかということによって定まるのである」

— 1918年、雑誌『柔道』第4巻第8号の「上段の柔道について」で

37「人間は悪をなすべきでなく、善をなすべきである」

— 1926年、雑誌『作興』第5巻第3号の「講道館柔道と講道館の使命および事業について」で

38「一人の決心は、千万人を動かすに足る」

— 1918年、雑誌『柔道』第4巻第9号の「初秋の辞」で

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書いた時期: 1918年(大正7年)

書いた場面: 秋の初めに柔道を学ぶ人へ向けて書いた「初秋の辞」の中の言葉です。今のような世の中の風潮は一人や二人ではどうにもできない、と言う人がいるかもしれない。嘉納治五郎は、そうした志の弱い人の心を気の毒に思うと記し、千万人も一人ひとりが集まってできているのだから、その一人が先に立って決心すれば、ついには千万人も動かせると説きます。まして柔道を修行する者がそろって決心すれば、どんな難しいことでもできないことはないだろう、というのです。

39「すみやかに最善を選んで実行せよ」

— 1919年、雑誌『有効の活動』第5巻第9号の「柔道修行者の任務」で

40「武のみに偏せず、同時に文にも偏せぬ両方面に、同時に関心を有する人であってほしい」

— 1937年、雑誌『柔道』第8巻第8号の「広く柔道の修行者に告ぐ」で

41「自ら、柔道精神の権化(ごんげ)たらんことを期(き)す」

— 1919年、雑誌『有効の活動』第5巻第4号の「柔道の修行者が平素心がけていなければならぬ事項」で

42「百の空しい願望百の空しい計画は、一の実行に及ばない」

— 1910年、本『青年修養訓』で

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書いた時期: 1910年(明治43年)

書いた場面: 若い人に向けて書いた本『青年修養訓』の中で、目的をどう果たすかを説いた所の言葉です。嘉納治五郎は、まず志を立て、次にそれを果たすための道(手段)を選び、そのうえで力を尽くして成し遂げよと説きました。この言葉の後には、どれほど良い目的と手段があっても、実行しなければ美しい夢のようなものだと続きます。講道館は、この教えを、道を選び力を尽くすという意味の擇道竭力(たくどうけつりょく)という言葉で伝えています。

尽己竢成・力必達など、漢字の言葉に込めた教えと遺訓

嘉納治五郎の名言には、教えを漢字4文字や短い漢文にまとめたものもあります。「尽己竢成」(おのれをつくしてなるをまつ)は、全力を尽くしたうえで成功を待て、という教えです。嘉納治五郎は1903年に、同じ題の文を書いています。「力必達」(つとむればかならずたっす)は嘉納治五郎が書に残した言葉で、努力を続ければ必ず達成できるという意味です。教育のことほど偉大なものはないという「教育之事 天下莫偉焉」は、高等師範学校にいた頃、生徒にいつも示していた語だと本人が書いています。講道館では、柔道の目的を短くまとめた文も、嘉納治五郎の遺訓として伝わっています。

43「己を尽(つく)して成(な)るを竢(ま)つ」

尽己竢成(おのれをつくしてなるをまつ)

— 1903年、雑誌『国士』の「尽己竢成」で

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書いた時期: 1903年(明治36年)

書いた場面: 「尽己竢成」という文の書き出しで、嘉納治五郎は、己を尽くして成るを待つことは、世の中で事を成そうとする時に最も大切な戒めだと説きます。成功は才能と運がそろって初めて生まれるとしたうえで、うまくいかないと運のせいにして努力をやめる人や、ただ幸運を待つだけの人をいさめました。文の後半には「幸運を望むよりは、まず己を責めよ」という言葉があり、幸運にもおごらず、不運にもくじけず、よく勤め、よく耐えて成るのを待つべきだと結んでいます。

44「力(つとむ)れば必ず達す」

力必達(つとむればかならずたっす)

— 嘉納治五郎が書に残した言葉

45「人生の行路、ただ一つあるのみ」

人生行路 唯有一耳

— 1922年、雑誌『有効の活動』第8巻第2号で

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書いた時期: 1922年(大正11年)

書いた場面: 柔道の修行を毎日の暮らしにどう生かすかを説いた所で、嘉納治五郎は、過ぎた失敗をいつまでも悔やんだり、怒ったり、不平を言ったり、思い悩んだりするのは精力の無駄遣いだと戒めています。心身の力を最も有効に使うのが柔道の教えである以上、一番善いと思うことをすればよく、行く道は一つしかない。嘉納治五郎はそう書き、いつも言っているように、と前置きしてこの八字の言葉を挙げました。分かれ道で迷っても、考えて選んだ道を行き、違っていたらその時に正しいと思う方へ進めばよい、とも書きました。

46「教育の事、天下にこれより偉(い)なるは無し」

教育之事 天下莫偉焉

— 高等師範学校にいた頃、いつも生徒に示していた言葉

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書いた時期: 高等師範学校の校長だった頃(1893〜1920年)。1935年(昭和10年)の雑誌『教育』第3巻第10号で、本人がそう振り返っています

書いた場面: 全文は「教育之事天下莫偉焉、一人徳教広加万人、一世化育遠及百世」で、教育ほど偉大なものはなく、一人の教えが広く万人に及び、一代の教育が遠く百代の後まで及ぶ、という意味です。1923年(大正12年)の雑誌『中等教育』第45号では、政治や軍事の華やかな事業も数十年から数百年でこわれてしまうが、教育の力は百年千年たっても人から人へ伝わると述べています。この語と対になる「教育之事天下莫楽焉」(教育のことほど楽しいものはない)も、同じように生徒に示していました。

47「柔道は心身の力を最も有効に使用する道である その修行は攻撃防禦の練習に由って身體精神を鍛錬修養し 斯道の神髄を體得する事である さうして是に由って己を完成し世を補益するが 柔道修行の究竟の目的である」

— 1925年、講道館文化会の『柔道年鑑』の冒頭「柔道の本義と修行の目的」で(講道館は嘉納治五郎を師範と呼び、この文を「嘉納治五郎師範遺訓」として伝えている)

嘉納治五郎の後に続いた野村忠宏や松本薫など、柔道家たちの言葉は、格闘技の名言を集めた記事の中の柔道の名言の所で読めます。

よくある質問(Q&A)

Q1. 精力善用・自他共栄とはどういう意味?

精力善用は、目的を果たすために心と体の力をいちばん有効に使うこと、自他共栄は、互いに助け合い譲り合って、自分も他人も一緒に栄えることです。嘉納治五郎は、力を使う目的は善でなければならず、社会が続き発展していくのを助ける自他共栄もまた善だと書きました。1922年に講道館文化会を作ってからは、この2つを柔道の修行の目的としても、社会生活の原則としても広めました。

Q2. 「人に勝つより自分に勝て」は嘉納治五郎の言葉?

この言葉は嘉納治五郎の名言として紹介されることがありますが、講道館が公開している本人の言葉や、当時の本の中には見当たりません。出てくるのは、1960年代にフジテレビで放送された「姿三四郎」の主題歌の歌詞です(作詞は関沢新一、歌は村田英雄)。嘉納治五郎自身は、目の前の勝ち負けに重きを置いてはならない、勝っても誇らず負けてもくじけるな、という言葉を書き残しています。

Q3. 「柔よく剛を制す」は誰の言葉?

もとは中国の古い兵法書『三略』にある「柔は能く剛を制し、弱は能く強を制す」という言葉で、嘉納治五郎が作った言葉ではありません。講道館の説明では、嘉納治五郎は、柔術がこの言葉で表してきた「柔」の考え方から出発し、心身の力を最も有効に使うという原理へと発展させました。嘉納治五郎自身も、1935年に雑誌『改造』の「柔道真髄」でこの言葉を使っています。

Q4. 嘉納治五郎は何をした人?

柔術を学び、1882年に講道館を開いて柔道を作った人です。高等師範学校(今の筑波大学)の校長を長く務めた教育者でもあり、1909年にアジアで初めての IOC 委員になって、1912年のストックホルム大会で日本がオリンピックに初めて参加する道を開きました。柔道の目的を、相手に勝つことではなく、心と体を鍛えて自分を完成させ、世の中の役に立つことに置いた人でもあります。

Q5. 嘉納治五郎の遺訓とは?

嘉納治五郎の遺訓は、柔道の目的を短くまとめた文です。講道館では嘉納治五郎を師範と呼び、この文を「嘉納治五郎師範遺訓」として伝えています。柔道は心身の力を最も有効に使う道であり、攻撃と防御の練習で体と心を鍛えてその道を身につけ、それによって自分を完成させ、世の中の役に立つことが柔道の修行の最後の目的だ、という内容です。同じ文は、1925年の『柔道年鑑』の冒頭に「柔道の本義と修行の目的」として載っています。書き出しは、1918年に雑誌『柔道』に書いた「柔道は心身の力を最も有効に使用する道である」と同じ言葉です。

Q6. 嘉納治五郎とオリンピックの関係は?

1909年にアジアで初めての IOC 委員になり、1911年に大日本体育協会を作って初代会長に就きました。1912年のストックホルム大会には団長として参加し、日本が初めてオリンピックに出ています。1940年のオリンピックは1936年に東京開催が決まり、嘉納治五郎は1938年のカイロでの IOC 総会でその開催を確かめました。しかし、その帰りの氷川丸の船上で亡くなりました。東京大会は、その後の国際的な争いのために開かれずに終わっています。

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