藤川球児は、火の玉ストレートで阪神タイガースの抑えを務めたプロ野球の元投手で、2025年から阪神の監督です。清原和博・松坂大輔への引退セレモニーの言葉から、デイバイデイなど藤川監督の名言まで、打たれても前を向いてきた藤川球児の名言は、踏ん張りたい時に背中を押してくれます。
藤川球児は、阪神タイガースの抑え(試合の最後を任される投手)として「火の玉ストレート」を投げ続けたプロ野球の元投手で、2025年からは阪神の監督を務めています。若い頃はなかなか勝てず、トレードの候補にまでなりました。そこから、打者がストレートを待っているとわかっていても、あえてストレートで勝負する投手になっていきます。打たれても叩かれても前を向いてきた藤川球児の名言は、踏ん張りたい時に背中を押してくれます。清原和博さんと松坂大輔さんに贈った引退セレモニーの言葉や、「デイバイデイ」のような藤川監督の名言も、それぞれが生まれた場面と一緒にたどっていきましょう。
藤川球児のプロフィール
藤川球児は、高知県出身のプロ野球の元投手です。1998年のドラフト1位で阪神タイガースに入り、抑えとして、リードを守って試合を締めくくるセーブを日米通算で245回挙げました。2020年に現役を引退し、2025年からは阪神の監督として、チームを2年続けてリーグ優勝に導いています。
基本プロフィール
阪神の抑えだった頃に付けていた背番号22を、監督になった今も背負っています。
| 項目 |
内容 |
| 生年月日 |
1980年7月21日 |
| 出身地 |
高知県 |
| 身長・体重 |
185cm・90kg |
| 投打 |
右投左打 |
| 出身校 |
高知商業高校 |
| プロ入り |
1998年ドラフト1位(阪神) |
| 通算成績 |
日米通算245セーブ・164ホールド |
| 主なタイトル |
最多セーブ2回・最優秀中継ぎ2回 |
| 今の仕事 |
阪神タイガースの監督(2025年〜) |
| 座右の銘 |
球進一歩 |
高知商業から火の玉ストレート、阪神の監督までの歩み

高知商業では2年生の夏に、兄の順一さんとバッテリーを組んで甲子園に出ました。阪神に入ってからは失敗と故障をくり返し、初勝利はプロ4年目の2002年です。2005年に中継ぎを任されると、当時のプロ野球記録となる80試合に投げ、2006年の途中からは抑えになりました。火の玉ストレートという呼び名は、2006年のオールスター(ファンの投票などで選ばれた選手が、セ・リーグとパ・リーグに分かれて戦う試合)の第2戦で対戦した清原和博さんの「火の玉や」という一言から生まれたと、本人が著書に書いています。
- 1998年: ドラフト1位で阪神へ(入団は1999年)
- 2002年: プロ初勝利
- 2005年: 80試合に投げ、リーグ優勝。最優秀中継ぎ
- 2007年: 46セーブで最多セーブ
- 2013年: カブスでメジャーへ。6月にひじの手術
- 2015年: レンジャーズを経て、地元の高知ファイティングドッグスへ
- 2016年: 阪神に戻る
- 2020年: 現役を引退
- 2024年: 10月に阪神の監督に就任
- 2025年: 監督1年目でリーグ優勝
- 2026年: 球団で初めてのリーグ連覇
引退してからの4年間は、阪神の特別補佐やテレビの解説の仕事をしていました。
座右の銘
藤川球児の座右の銘は、監督になって迎えた最初の正月に、自分で作った「球進一歩」です。2025年1月の新春インタビューで、座右の銘は今も「弱気は最大の敵」かと聞かれ、「座右の銘は新しく考えました。正月用にと思って(笑い)。」と答えています。
もとにしたのは「球道一筋」です。村山実さんの言葉で、岡田彰布監督が色紙に書いていました。藤川監督は入団会見で村山さんのような投手になりたいと話し、監督になった今も「岡田監督に育てていただいた」と言います。その2人につながる「球道一筋」の「道」を「進」に、「筋」を「歩」に変えました。新しい4文字は「道を進む、一歩ずつ、という意味で。」と説明しています。
| 時期 |
座右の銘 |
| 高校時代から |
弱気は最大の敵(津田恒実さんの言葉) |
| 2025年から |
球進一歩 |
2025年1月のインタビューでは、優勝したら1文字戻そうかと笑っていました。それでも、2度のリーグ優勝の後の2026年10月の会見で「私の今のテーマでございます『球進一歩』」と話しています。野球の道を一歩ずつ進んでいく考えは、今も変わっていません。「球道一筋」を色紙に書いてきた岡田監督の野球の見方は、岡田彰布の名言から伝わってきます。
藤川球児の名言30選
藤川球児の名言には、勝てなかった若手の頃や、打たれて叩かれた時に、自分を奮い立たせてきた言葉があります。2005年に、勝負を避けたと清原和博さんに責められた若い投手は、翌年のオールスターで清原さんにストレートだけを投げ込み、「火の玉や」と言われるまでになりました。2005年から15年後、引退セレモニーで清原さんへの感謝を語るまでの流れを知ると、一つひとつの言葉の重みが伝わってきます。
阪神の抑え・火の玉ストレートの頃の名言
2005年から2012年までの藤川球児は、阪神の中継ぎと抑えとして、試合の終盤のマウンドに立ち続けました。ただ、そこにたどり着くまでには、プロ4年目まで勝てず、トレードの候補にまでなった時期がありました。清原和博さんとの対戦を重ねながら、火の玉ストレートの投げ方が決まっていくまでの迷いと覚悟が、この頃の言葉に残っています。
01「勝利の瞬間、家族の顔が浮かびました。このボールは嫁さんにあげます。一番苦しいときに支えてくれた」
— 2002年9月11日、プロ初勝利を挙げたヤクルト戦の後
この名言の背景を詳しく読む
発言時期: 2002年9月11日(神宮でのヤクルト戦)
発言状況: プロ4年目のこの年、藤川球児は8試合に先発しても、なかなか勝てずにいました。この日は初回に本塁打を打たれたものの、その後は1本のヒットも許さず、8回を1安打1失点に抑えています。9回に味方が勝ち越して4対3で逃げ切ると、やっとつかんだプロ初勝利に、藤川球児はお立ち台で涙ぐみながらこう話しました。この時の監督は星野仙一さんです。監督として迎えた2025年1月の星野さんの命日には「選手へどうアプローチするかのお手本に、星野さんが一番に出てくる」と語っています。その星野さんが選手たちにどんな言葉をかけてきたかは、星野仙一の名言にあります。
02「僕はプロ野球選手なのであって、阪神の職員ではないのだ。」
— 2021年の著書で、2003年のオフを振り返って
この名言の背景を詳しく読む
発言時期: 2021年1月の著書『火の玉ストレート』(振り返っているのは2003年のオフ)
発言状況: 2003年のシーズンが終わった時、藤川球児は翌年からのチームの構想から外されかけ、トレードの有力な候補の1人になっていました。終身雇用も年功序列もなく、要らない選手を出して必要な選手を取る。それがプロの球団だと、あらためて思い知った時の言葉です。構想から外す選手のリストから名前を消してくれたのは、翌年から1軍の監督になる岡田彰布さんでした。本人がそれを知ったのは、4年後の春のキャンプで、岡田監督から聞かされた時です。
03「誰からも評価されたくない、関係ないって思った瞬間に、記憶がないぐらい全力で走ってました。」
— 2023年のインタビューで、2004・2005年を振り返って
この名言の背景を詳しく読む
発言時期: 2023年8月に公開されたインタビュー(振り返っているのは2004年の途中から2005年)
発言状況: 結果が出始めた頃について聞かれた答えです。「2005年に80試合で日本記録も投げるんですけれども、いやいや止まらない、止まらない止まらないという。」と続け、それまで止まっていた分、止まることを恐れてはいけないと思っていたと話しています。けがについても「怪我したら辞めると決めてるから守らないんだって。怪我して辞めるのは本望なわけだから。」と言い切りました。
04「常識的に考えて、打者が明らかにストレートを待っている場面で注文に応じるプロの投手はいない。しかし、そこであえてストレートを投げる投手がいてもいい、と思った。」
— 2021年の著書で、2005年4月の清原和博さんとの対戦を振り返って
この名言の背景を詳しく読む
発言時期: 2021年1月の著書(振り返っているのは2005年4月21日の巨人戦の後)
発言状況: 2005年4月21日、東京ドームの巨人戦で、藤川球児は9点リードの7回、ツーアウト満塁の場面で清原和博さんと対戦し、フルカウントからフォークボールで空振り三振に取りました。試合の後、真っ向勝負を避けたと藤川球児を非難した清原さんの発言が、大きく報じられます。本人は勝負を避けたつもりは少しもなかったと書きつつ、この一件がプロ野球選手としてのスタイルを見直すきっかけになったと振り返っています。打ち返される見込みが高いのは承知のうえで、「だが、打たれなければいい。」と言い切っています。
05「打者は投手によって育てられ、投手は打者によって磨かれる。僕は、清原さんによって磨かれた。」
— 2021年の著書で、清原和博さんとの真剣勝負を振り返って
この名言の背景を詳しく読む
発言時期: 2021年1月の著書(振り返っているのは2005年6月から2006年のオールスター)
発言状況: 4月の一件から2か月後の2005年6月25日、甲子園の巨人戦の8回に、藤川球児は清原さんをストレートで空振り三振に取りました。翌2006年のオールスター第2戦では、オリックスに移っていた清原さんに4球すべてストレートを投げ、また空振り三振です。フルスイングで応えた清原さんは、試合の後にそのストレートを「火の玉や」と言い表しました。名づけ親が清原さんだったことも、本人がこの呼び名を誇らしく思う理由の1つです。
06「野球漫画のような世界をつくりたい」
— 2006年7月21日、オールスター第1戦の前に
この名言の背景を詳しく読む
発言時期: 2006年7月21日(神宮でのオールスター第1戦)。この日は26歳の誕生日でした。
発言状況: 3対1でリードした9回、藤川球児は先頭のカブレラ(西武)にストレートの握りを見せ、1ボールの後に3球続けて空振りさせ、続く小笠原道大(日本ハム)も空振り三振に取りました。試合の後には「打たれてもいいと思っていたけど、シーズン中と同じように打たれたくない気持ちになった」と話しています。
07「僕が投げる1球1球が、すなわち藤川球児なのだ。僕の仕事とは、ただただ価値のあるボールを投げることに尽きると思った。」
— 2021年の著書で、右腕一本で生きると決めた頃を振り返って
この名言の背景を詳しく読む
発言時期: 2021年1月の著書(振り返っているのは、2005・2006年に最優秀中継ぎを取った後)
発言状況: トレードの候補だった過去を岡田監督から聞かされた後、藤川球児は、プロ野球選手としての自分の価値はこの右腕にしかないと考えるようになります。「だから、僕はいつつぶれてもいいという気持ちで、全力で投げた。」と続けています。投げられなくなったら潔くユニフォームを脱ぐと決め、いつでも引退する覚悟でプレーするようになったのも、ちょうどこの頃からでした。
08「必要だと言われて心を閉ざすことは僕には無理だし、失礼だとも思った。何より、求められているなら、それに応えることも責任。」
— 2009年3月、第2回 WBC の時の取材で
この名言の背景を詳しく読む
発言時期: 2009年3月(第2回 WBC の前から大会中の取材)
発言状況: 藤川球児は2006年の第1回 WBC(野球の国と地域の代表が戦う大会)で中継ぎを任され、アメリカ戦でサヨナラ打を、韓国戦で決勝打を打たれて、悔しさが残っていました。阪神の抑えとして責任が大きくなっていた藤川球児は、第2回の代表を一度は断っています。それでも「チームはおまえを必要としている」と改めて伝えられ、一晩考えて出ることを決めました。その理由を話したのがこの言葉で、「それも野球人として幸せなことなのかなって」と続けています。
メジャー挑戦・独立リーグ・阪神復帰の名言
2012年のオフ、藤川球児は海外FA権(海外の球団とも自由に契約できる権利)を使ってカブスに入りましたが、1年目の2013年にひじを痛めて手術を受けました。2015年5月にレンジャーズで戦力外になると、次に選んだのは地元・高知の独立リーグのチームで、その年の11月に阪神へ戻っています。思うように投げられない日々の中でも、藤川球児は、自分の道は自分で決めると話してきました。
09「やっぱり縦ジマなんだな」
— 2012年12月、カブスの入団会見で
この名言の背景を詳しく読む
発言時期: 2012年12月7日(現地・リグレー・フィールドでのカブスの入団会見)
発言状況: 海外FA権を使ってメジャーに挑み、カブスと2年契約を結んだ藤川球児は、入団会見でユニフォームに袖を通すと、こう口にしました。カブスのユニフォームも、阪神と同じ縦じまです。会見では本拠地のリグレー・フィールドを甲子園球場に重ね合わせ、目標には「メジャーでも難しいポジションであるクローザーを目指したい」と、阪神と同じ抑えを挙げました。
10「自分が決断をするときには、迷わない、後悔しないということが自分の人生の軸になっています。」
— 2015年6月8日、高知ファイティングドッグスの入団会見で
この名言の背景を詳しく読む
発言時期: 2015年6月8日(高知市内のホテルでの入団会見)
発言状況: レンジャーズで戦力外になった藤川球児は、日本のプロ野球の球団ではなく、生まれ故郷の高知ファイティングドッグス(四国アイランドリーグplus)に入りました。給料は受け取らず、自分が投げる試合の入場料収入の10%を児童養護施設に寄付する形で入団しました。冒頭のあいさつで「最高の決断ができたのではないかと思います。」と話してから続けたのが、この言葉です。当たり前という考えにとらわれて新しいものを生み出せないのは閉塞感につながる、とも語っています。
11「死ぬときに『あいつがいてよかったな』と言ってもらえるように生きたい。」
— 2015年6月8日、同じ会見で子どもたちに語る夢を聞かれて
この名言の背景を詳しく読む
発言時期: 2015年6月8日(高知ファイティングドッグスの入団会見)
発言状況: 会見の最後に聞かれたのは、子どもたちに今の夢を語るとしたら、という質問です。「そのために、人に迷惑をかけない。自分に芯を持って生きる。」と付け加え、過去にとらわれずに先を見つめ、自分で楽しい人生を送りたいと話しました。12日後の6月20日、高知での初登板には2,865人のお客さんが集まり、チームの主催試合の新記録になりました。
12「ただ楽しく野球ができさえすれば、ほかには何もいらない。」
— 2021年の著書で、高知で投げた2015年を振り返って
この名言の背景を詳しく読む
発言時期: 2021年1月の著書(振り返っているのは2015年の高知ファイティングドッグスの頃)
発言状況: 高知でもう一度ボールを握った時、藤川球児は、巨人の斎藤雅樹さんに憧れていた子どもの頃の自分を思い出しました。「心からそう思っていたころの僕が、プロ野球選手としての藤川球児より大きな存在になっていた。」と振り返っています。楽しむことを一番にしたこの年、高知での公式戦では6試合に投げて2勝1敗、防御率0.82と、結果もついてきました。
13「自分の人生をまっすぐ歩くことが、自分が自分でいられる一番の方法だと思っているんです。それはアメリカに行って気づきました。」
— 2016年3月、元阪神の捕手・中谷仁さんとの対談で
この名言の背景を詳しく読む
発言時期: 2016年3月(阪神に戻って1年目の開幕前)
発言状況: 2015年11月、藤川球児は阪神と2年契約を結んで戻ってきました。阪神時代にバッテリーを組んだ中谷仁さんに、タイガース以外のユニフォームを着ている姿はあまり想像できないと言われ、アメリカで気づいたことを話しています。「結果的に、またタイガースのユニフォームを着ていますけど……。これは運命なのかもしれないし、ありがたいこと。」と、阪神に戻ったことも語りました。
14「右腕一本で生きてきたと自負するなら、引き際はあくまでこの右腕が決めるべきだと思った。」
— 2021年の著書で、2016年のシーズンの終わりを振り返って
この名言の背景を詳しく読む
発言時期: 2021年1月の著書(振り返っているのは2016年のシーズンの終わり)
発言状況: 阪神に戻った2016年は、5勝6敗3セーブ10ホールドに終わりました。シーズンの終わりに本気で引退を考え、金本知憲監督に「やめたほうがいいんじゃないかって思うんです」と打ち明けると、「止まった時間を取り戻すのは簡単じゃない。でも、必ず取り戻せる。落ち着いてやれ」と励まされます。その後に思ったのがこの言葉で、翌2017年はグラブに「不動心」と刺しゅうして投げました。
引退会見と引退セレモニーの言葉(清原和博・松坂大輔へ)
2019年に抑えに戻った藤川球児は、2020年8月31日、そのシーズン限りでの引退を発表しました。翌日の引退会見では、叱咤激励をはね返すのが楽しかったと、プロの22年を振り返っています。11月10日の巨人戦の後には甲子園で引退セレモニーが開かれ、藤川球児は清原和博さん、松坂大輔さん、ファン、家族のそれぞれに言葉を贈りました。
15「いつ潰れてもいいという覚悟で25歳からやってきました。前向きにやり続けられたことが良かったなと、ここまで続けられたんだと思います。叱咤激励も多く、それを覆すのが楽しかったです。」
— 2020年9月1日、引退会見で
この名言の背景を詳しく読む
発言時期: 2020年9月1日(西宮市内のホテルでの引退会見)
発言状況: 前の日に球団が引退を発表し、この日に会見が開かれました。6連戦の毎日に準備をする中で、連投になると体に違和感を覚えるようになり、いよいよかなと思ったと話しています。25歳は、2005年に80試合に投げた年にあたります。初めて引退を考えたのは27歳くらいで、それからはいつでも辞める覚悟でやってきたとも振り返りました。
16「甲子園球場は僕にとって母親。阪神タイガースは父親」
— 2020年9月1日、同じ引退会見で
この名言の背景を詳しく読む
発言時期: 2020年9月1日(引退会見)
発言状況: 最後のシーズンにやり残したことを聞かれ、挙げたのはタイガースの優勝でした。入団した時に優勝を3回すると言いながら、まだ2回しか達成していない、今3回目のチャンスが来ている、と話した中で、甲子園と阪神を自分の両親にたとえています。日米通算250セーブまであと5セーブだったことには、「建前なしに言わせてもらうと、考えたことはない。もっと大きな財産をいただいた」と答えています。
17「一軍で戦っている選手は本当に大変なので、叱咤激励も大事なのですが、戦っている4時間の間は尊敬してやってほしいと思います。」
— 2020年9月1日、引退会見の最後にファンへ
この名言の背景を詳しく読む
発言時期: 2020年9月1日(引退会見の最後)
発言状況: 最後にファンへの一言を求められた藤川球児が話したのは、これから13連戦に入る選手たちのことでした。巨人との4連戦もあるこの13連戦をチームがどう乗り切るかを気にかけ、「僕は三軍にいますが今から甲子園球場にいって、気合を入れなおしてきます。」と言ってから、ファンにこう頼みました。
18「清原和博さんへ。あなたがいなければ今の僕は存在しません。僕をここまで成長させてくれたのは清原さんとの対戦、そして存在です。」
— 2020年11月10日、甲子園での引退セレモニーで
この名言の背景を詳しく読む
発言時期: 2020年11月10日(巨人戦の後、甲子園での引退セレモニー)
発言状況: セレモニーでは、かつての仲間や対戦相手のビデオメッセージが流れ、その中に清原和博さんもいました。ビデオで清原さんが2005年4月の一件にふれて謝ることは、藤川球児には前もって知らされていませんでした。あいさつで清原さんへの言葉を贈ったのはその後です。何年か前、お互いに苦しい時期に、清原さんから「身体を大事にしろよ」とお守りが届いたことも明かし、必ずお礼を伝えに行くと話しました。
19「ライバル。松坂大輔へ。必ず投げる姿を見せて、世の中の人を元気にしてください。あなたのそういう姿が今の日本には必要です。僕があなたの一番の応援団になります。目標でいてくれてありがとう。」
— 2020年11月10日、同じ引退セレモニーで
この名言の背景を詳しく読む
発言時期: 2020年11月10日(引退セレモニー)
発言状況: 松坂大輔さんは、藤川球児と同じ1980年生まれで、同じ1998年のドラフト1位でプロに入りました。あいさつの中で藤川球児は、1年目から活躍した松坂さんと上原浩治さんを見て、失敗と故障をくり返す自分と比べていたことを明かしました。それでも負けを認めず、必ず見返してやると思ってやってきたと、藤川球児は話しています。この年の松坂さんは西武に14年ぶりに戻ったものの、首の手術を受け、1軍では投げていませんでした。けがと向き合いながら投げ続けた松坂さん自身の言葉は、松坂大輔の名言で読めます。
20「僕の投げる『火の玉ストレート』には甲子園球場のライトスタンドの大応援団の皆様のチームの想い、そして全国のタイガースファンの熱い想いが全て詰まっています。それが皆さんの知る『火の玉ストレート』の投げ方です。」
— 2020年11月10日、引退セレモニーで阪神ファンへ
この名言の背景を詳しく読む
発言時期: 2020年11月10日(引退セレモニー)
発言状況: この日の巨人戦の9回、藤川球児は最後のマウンドに上がり、12球すべてストレートを投げて三者凡退に抑えました。ファンへのお礼の中で「それは打たれるはずがありません。」と続け、「ファンの皆様にとって、僕の存在が誇りというのならば、僕にとってもファンの皆様が誇りです。」と語りかけています。
出典: 阪神タイガース公式サイト(引退セレモニーの記事)
21「親父、お母さん、名前を『球児』にしてくれてありがとう。野球をやらせてくれてありがとう。」
— 2020年11月10日、引退セレモニーで両親へ
この名言の背景を詳しく読む
発言時期: 2020年11月10日(引退セレモニー)
発言状況: あいさつの終わりに、一度も世間に顔を見せずに支えてきた家族へ、明日から夫として、普通のお父さんとして、何でもしてあげられるようになると伝えました。そのあとに両親へ向けたのがこの言葉です。「辞めようとしているとき、何回も引き止めてくれてありがとう。」と続け、2人が元気な間に少しずつ恩返しをさせてほしいと話しています。
藤川監督の名言・語録(デイバイデイなど)
2024年10月、藤川球児は阪神の監督に決まりました。1年目の2025年は9月7日にリーグ優勝を決め、2026年には球団で初めてのリーグ連覇も果たしています。藤川監督の名言・語録には、引き分けた夜の「デイバイデイ」のように、どんな結果の日も、次の日を見すえた言葉が残っています。
22「まっすぐ愚直に、真心を込めて。」
— 2024年10月15日、監督の就任会見でファンへ
この名言の背景を詳しく読む
発言時期: 2024年10月15日(大阪市内での監督就任会見)
発言状況: 最後にファンへのメッセージを求められた答えです。引退してからの4年間、SNS などでたくさんの人と出会い、社会人として大きく勉強できたと振り返り、「僕の中では『経験こそ財産』という風に今回も学びました。」と話してからこの言葉を続けました。岡田監督やOBの方々が残してきた思いを次の世代につなぐと言い、「面白いなって言われるチームを作りに行きます。」と締めくくっています。
23「姿勢は『姿』に『勢い』と書いて姿勢なので。僕にとって、背筋を伸ばして行儀よくというのはアスリートにとっての姿勢ではない。見る人が『勢いがあるな、前向きだな』というのが『姿勢』。」
— 2024年10月27日、秋季練習の後の取材で
この名言の背景を詳しく読む
発言時期: 2024年10月27日(甲子園での秋季練習の後)
発言状況: 秋季練習の初日の訓示で、藤川監督は佐藤輝明を名指しして「しっかり姿勢を見せていこう」と呼びかけていました。その佐藤が監督の求める姿勢を示せているかと記者に聞かれた藤川監督は、「姿勢」という漢字の成り立ちから説明しました。「裏側ではいくらでも、ゆっくりしてくれていい。」とも話し、グラウンドに出た瞬間にスイッチが入る選手であってほしいと続けています。
24「また、あした。デイ・バイ・デイなので。また、あしたです」
— 2025年4月2日、DeNA と引き分けた試合の後
この名言の背景を詳しく読む
発言時期: 2025年4月2日(京セラドーム大阪での DeNA 戦の後)
発言状況: 3点リードの8回に追いつかれ、延長12回で6対6の引き分けに終わった試合でした。延長では毎回サヨナラのチャンスがありながら決めきれず、監督として初めての引き分けです。藤川監督は「また、あした」をくり返し、約20秒で会見を終えました。デイバイデイは、英語で「1日1日」という意味です。藤川監督はその後も、試合が終わるとたびたびこの言葉を口にしています。
25「ベンチでもおそらく、みんながなかなかうまくいかないな、と、今日のゲームでもそういうシーンがありましたけど、やっぱり人生と一緒ですね。」
— 2025年6月18日、連敗を7で止めたロッテ戦の後
この名言の背景を詳しく読む
発言時期: 2025年6月18日(甲子園での交流戦・ロッテ戦の後)
発言状況: 8対1で勝ち、連敗を7で止めた試合の後、その時の気持ちを聞かれた藤川監督は、野球を人生に重ねました。この日もプレーボールの1球目のショートゴロがエラーになりましたが、「そういう小さなところをね、我慢して、伊藤(将)がしのいで、それが最終的にゲームとして成立するということですから」と続けました。伊藤(将)は、この日に先発した伊藤将司のことです。いつも通りやれば必ずどこかでかみ合う時が来ると思い続けていたと話し、「野球って面白いなというふうに、また感じましたね」とも語っています。
26「ゲームが始まって4時間は全力でチームのために尽くしてほしい」
— 2025年9月7日、リーグ優勝を決めた日の会見で
この名言の背景を詳しく読む
発言時期: 2025年9月7日(甲子園で広島に2対0で勝ち、リーグ優勝を決めた日)
発言状況: 選手としての優勝とはまた違う気持ちかと聞かれ、選手たちに伝えてきたことを話しました。5年前の引退会見で、ファンに「戦っている4時間の間は尊敬してやってほしい」と頼んだ藤川球児が、監督として選手に求めたのも、その4時間でした。「本当に中野の犠打に表れるように、献身的に、自己犠牲というものは選手たちに、身についていましたね。」と、中野拓夢の送りバントを例に挙げています。
出典: 阪神タイガース公式サイト(2025年9月7日の優勝の共同記者会見)
27「『あとは頼んだぞ』と、そのひと言で現役を終わっていたんですけど、まさか自分が指揮を執ることになり、みんなの力を借りるといいますか、そんな形で今日を迎えられるとは思っていなかったですね。」
— 2025年9月7日、同じ会見で胴上げの景色を聞かれて
この名言の背景を詳しく読む
発言時期: 2025年9月7日(リーグ優勝の共同記者会見)
発言状況: 甲子園の真ん中で胴上げされた時、どんな景色が見えたかと聞かれ、藤川監督は5年前の引退の時を思い出しています。現役を引退した2020年はコロナ禍の中だったと振り返り、岩崎優をはじめ、一緒に現役をやってきた選手たちのことを話しました。同じ会見では、ファンに向けて「この日のために選手たちを引き連れて、毎日4時間、時間を借りましたから。」とも話しています。
28「それがアスリートです。ゴールがないです。現役が終わるその日まで努力し続ける必要があるのがアスリートですから。」
— 2025年10月31日、シーズン終了の報告の後の会見で
この名言の背景を詳しく読む
発言時期: 2025年10月31日(阪神電鉄本社でオーナーにシーズン終了を報告した後の会見)
発言状況: 前の日、阪神は日本シリーズの第5戦でソフトバンクに敗れ、1勝4敗で日本一を逃しました。1年前と比べてチームが成長した所を聞かれ、成功の後にはもっとハードルが高くなる2026年が待っていると話してから続けた言葉です。同じ会見では「悔しさから来る努力っていうのはあまりいいものではなく、」と話し、悔しかろうが満足していようが、やることは同じだと語っています。
29「我慢でしょうね。戦力がある、勝って当たり前と言われる中で、そんなはずはないし、そんな甘くはないけれども、その言葉のヤリをみんなで受け止めず、自分たちのやるべきことを貫く。」
— 2026年10月3日、リーグ連覇が決まった日の会見で
この名言の背景を詳しく読む
発言時期: 2026年10月3日(セ・リーグの優勝が決まった日の共同記者会見)
発言状況: この日、阪神は広島に敗れましたが、夜の試合で2位の巨人が負けたため、セ・リーグとパ・リーグに分かれた1950年からの歴史で、球団で初めてのリーグ連覇が決まりました。連覇のいちばんの理由を聞かれ、藤川監督が真っ先に挙げたのが「我慢」です。勝って当たり前と言われる中で、やるべきことを貫いてくれた選手として、佐藤輝明の名前も挙げています。会見の初めには「まだ夢なんじゃないかと思いますね」とも話しました。
30「いきなり能力開花する選手、私は逃さない、逃さないつもりです。ですから爆発する、そのチャンスを掴む。年齢は関係ない。」
— 2026年10月18日、シーズン終了の報告の後の会見で
この名言の背景を詳しく読む
発言時期: 2026年10月18日(1年前と同じく、オーナーにシーズン終了を報告した後の会見)
発言状況: リーグ連覇の後、阪神はクライマックスシリーズのファイナルステージで DeNA に敗れ、日本シリーズに進めませんでした。来シーズンをどんな年にしたいかと聞かれ、たくさんの選手を起用した中で、もっとできた選手が実は結構いるのではないかと話しました。選手たちには「爆発しろ」と伝えていると明かし、「この言葉を残して春を待ちたいなと思います。」と締めくくっています。
よくある質問(Q&A)
Q1. 藤川監督の「デイバイデイ」はどういう意味?いつ言った?
デイバイデイ(day by day)は、英語で「1日1日」という意味です。藤川監督は2025年4月2日、DeNA と延長12回で引き分けた試合の後に「また、あした。デイ・バイ・デイなので。また、あしたです」と話し、約20秒で会見を終えました。
その後も試合の後にたびたび使っていますが、本人が意味を説明した言葉は見当たりません。
Q2. 藤川球児の座右の銘は?
監督になってからの座右の銘は「球進一歩」です。
2025年1月の新春インタビューで、岡田彰布監督が色紙に書いていた村山実さんの言葉「球道一筋」の字を変えて作ったと話し、「道を進む、一歩ずつ、という意味で。」と説明しました。それまでの座右の銘は、高校時代に帽子のつばの裏に書いていた「弱気は最大の敵」です。
Q3. 藤川球児は引退セレモニーで清原和博に何と言った?
2020年11月10日の引退セレモニーで、「清原和博さんへ。あなたがいなければ今の僕は存在しません。」と語りかけ、自分をここまで成長させてくれたのは清原さんとの対戦と存在だと感謝しました。
苦しい時期に清原さんから「身体を大事にしろよ」とお守りが届いたことも明かし、必ずお礼を伝えに行くと話しています。
Q4. 藤川球児と松坂大輔はどんな関係?
2人は同じ1980年生まれで、1998年のドラフトでともに1位指名を受けてプロに入りました。
2006年と2009年の WBC では、日本代表でともに戦っています。藤川球児は引退セレモニーで「ライバル。松坂大輔へ。」と呼びかけ、「目標でいてくれてありがとう。」と感謝を伝えました。
Q5. 藤川球児の語録はどこで読める?
現役時代の考え方は、引退の後の2021年1月に出した著書『火の玉ストレート』に、本人の言葉でまとまっています。監督になってからの言葉は、阪神タイガースの公式サイトにある、就任会見や優勝の会見、シーズン終了の報告の後の会見の記事で読めます。
試合の後の一言は、その日のスポーツ新聞に載っています。
Q6. 「火の玉ストレート」と呼ばれたのはなぜ?
名づけ親は清原和博さんです。
2006年のオールスター第2戦で、藤川球児は清原さんに4球続けてストレートを投げ、空振り三振に取りました。試合の後、清原さんはそのストレートを「火の玉や」と言い表しました。本人も著書の中で、清原さんを火の玉ストレートの名づけ親としています。