「伝説のファンタジスタ」ロベルトバッジョのプレースタイル
愛称 | ロビー、コディーノ |
国籍 | イタリア |
生年月日 | 1967年2月18日(51歳 |
出身地 | カルドーニョ |
身長 | 174cm |
体重 | 73kg |
ポジション | FW / MF |
利き足 | 右足 |
1982-1985 | ヴィチェンツァ |
1985-1990 | ACFフィオレンティーナ |
1990-1995 | ユヴェントス |
1995-1997 | ACミラン |
1997-1998 | ボローニャFC |
1998-2000 | インテル・ミラノ |
2000-2004 | ブレシア |
ファンタジスタそのものと言えるプレースタイル
ロベルトバッジョのプレースタイルは、現代サッカーでは失われて久しい「ファンタジスタ」という稀有なサッカー選手にだけ与えられる称号そのものというもので、サッカーというスポーツが持つ芸術性を体現するような存在です。
引退後ずいぶん経った今でも、ファンタジスタとは?と聞かれればロベルトバッジョだと答えるサッカーファンは数多くいることでしょう。
それほどロベルトバッジョのプレイは華麗で、激しいチャージに晒されながらも誰もが想像もしないテクニックでさらりとかわし、芸術的なゴールをあっさりと決める凄さがあり、現在でもロベルトバッジョを超える選手はいないのではないかと言われるほどです。
引退後ずいぶん経った今でも、ファンタジスタとは?と聞かれればロベルトバッジョだと答えるサッカーファンは数多くいることでしょう。
それほどロベルトバッジョのプレイは華麗で、激しいチャージに晒されながらも誰もが想像もしないテクニックでさらりとかわし、芸術的なゴールをあっさりと決める凄さがあり、現在でもロベルトバッジョを超える選手はいないのではないかと言われるほどです。
怪我と背中合わせのプレースタイル
華麗なロベルトバッジョのプレースタイルは常にオフェンスの中心となるものですから、相手チームのディフェンスの標的になってしまいました。
そのため幼少期からロベルトバッジョはプレッシングのターゲットにされながらプレイをして、ロベルトバッジョの技術を世界最高レベルへと成長させていったのです。
ただ激しいチャージで削られることは怪我に直結するため、あまりにも素晴らしいプレースタイルと引き換えに、常に怪我と付き合いながらの選手人生となってしまったのは皮肉なことだと言えるでしょう。
そのため幼少期からロベルトバッジョはプレッシングのターゲットにされながらプレイをして、ロベルトバッジョの技術を世界最高レベルへと成長させていったのです。
ただ激しいチャージで削られることは怪我に直結するため、あまりにも素晴らしいプレースタイルと引き換えに、常に怪我と付き合いながらの選手人生となってしまったのは皮肉なことだと言えるでしょう。
脆さと儚さがよりロベルトバッジョを高めることに
実際にロベルトバッジョは10代後半にステップアップの移籍が決まった直後の試合で、右膝前十字靭帯および外側靭帯断裂、内半月板損傷、膝蓋骨骨折という大怪我を負い、当時の医療水準では復帰は絶望的とまで言われる状況を乗り越えました。
その間もロベルトバッジョの復帰とその才能を信じてクラブは待ち続けたという事実が、ロベルトバッジョの凄さとその才能の素晴らしさを物語っています。
ロベルトバッジョのサッカー人生には常に怪我がつきまとい、その危うさがさらにロベルトバッジョのプレイを際立たせるというものになっていくのです。
その間もロベルトバッジョの復帰とその才能を信じてクラブは待ち続けたという事実が、ロベルトバッジョの凄さとその才能の素晴らしさを物語っています。
ロベルトバッジョのサッカー人生には常に怪我がつきまとい、その危うさがさらにロベルトバッジョのプレイを際立たせるというものになっていくのです。
当時のサッカーもロベルトバッジョには逆風
その後も怪我と上手に付き合いつつ、芸術的なプレースタイルで活躍を続けたロベルトバッジョですが、当時のサッカー戦術のトレンドは決してロベルトバッジョにとって良いものではありませんでした。
当時のサッカーは、スター選手を擁する相手チームのストロングポイントを激しいプレッシングで潰していくサッカーが主流となっており、華麗なテクニックと創造性で勝負する繊細なプレースタイルのロベルトバッジョには居心地がいいサッカーとは言えなかったのです。
それでもロベルトバッジョは21歳から27歳までの6シーズンに、通算186試合出場、102ゴールと素晴らしい成績を出し、怪我に堪えながらレギュラーとして毎シーズンコンスタントに15~20ゴール上げていきました。
当時のサッカーは、スター選手を擁する相手チームのストロングポイントを激しいプレッシングで潰していくサッカーが主流となっており、華麗なテクニックと創造性で勝負する繊細なプレースタイルのロベルトバッジョには居心地がいいサッカーとは言えなかったのです。
それでもロベルトバッジョは21歳から27歳までの6シーズンに、通算186試合出場、102ゴールと素晴らしい成績を出し、怪我に堪えながらレギュラーとして毎シーズンコンスタントに15~20ゴール上げていきました。
代表でも守備戦術の中で活躍をする
このようなロベルトバッジョの活躍をしてもイタリア代表では不遇であったのはほんとうに信じられない話です。
当時のサッカーは、代表戦においても守備的戦術が全盛で、プレッシングの強いピッチ上でロベルトバッジョのようなプレースタイルのファンタジスタを置くことは、大変なリスクになると考えられたからです。
しかしロベルトバッジョはテクニックだけではなく無類の勝負強さも持ち合わせており、少ないプレー時間でもしっかりと結果を残しました。
1990年イタリアW杯:3位
1994年アメリカW杯:準優勝
1998フランスW杯:準々決勝進出
いずれもベスト8以上に入っており、イタリアの守備力にロベルトバッジョの創造性が加味されたゆえの結果です。
当時のサッカーは、代表戦においても守備的戦術が全盛で、プレッシングの強いピッチ上でロベルトバッジョのようなプレースタイルのファンタジスタを置くことは、大変なリスクになると考えられたからです。
しかしロベルトバッジョはテクニックだけではなく無類の勝負強さも持ち合わせており、少ないプレー時間でもしっかりと結果を残しました。
1990年イタリアW杯:3位
1994年アメリカW杯:準優勝
1998フランスW杯:準々決勝進出
いずれもベスト8以上に入っており、イタリアの守備力にロベルトバッジョの創造性が加味されたゆえの結果です。
後年は怪我の悪化で苦しむ
30歳を超えるころには若いころの右膝の怪我が悪化しプレー時間が減少しましたが、センターフォワードではなく下がり目のトップ下ながら史上5人目のセリエA通算200得点という偉業を達成し、その凄さを数字ではっきりと示しました。
このころのロベルトバッジョはブレシアに在籍し、自分のためにオーガナイズされたチーム戦術の中で、従来のファンタジスタ的なプレイを老練に洗練したテクニカルなプレースタイルで、大活躍することになります。
むしろ元々強靭ではないフィジカルに頼ることなく、少ないタッチ数とポジショニング、周囲の味方の使い方など一切の無駄がそぎ落とされたスタイルは、ある意味で本当のファンタジスタといえるでしょう。
このころのロベルトバッジョはブレシアに在籍し、自分のためにオーガナイズされたチーム戦術の中で、従来のファンタジスタ的なプレイを老練に洗練したテクニカルなプレースタイルで、大活躍することになります。
むしろ元々強靭ではないフィジカルに頼ることなく、少ないタッチ数とポジショニング、周囲の味方の使い方など一切の無駄がそぎ落とされたスタイルは、ある意味で本当のファンタジスタといえるでしょう。
ロベルトバッジョの名言
ロベルトバッジョは怪我や境遇の不遇さなどから、ある種サッカーを達観したところがあり、各種のインタビューなどでも後世のサッカー界に遺る名言をいくつも残しています。
有名な名言をピックアップし、ロベルトバッジョの凄さに迫ってみたいと思います。
有名な名言をピックアップし、ロベルトバッジョの凄さに迫ってみたいと思います。
ロベルトバッジョの名言①
名言
▶「思いついたプレーの中で最も難しいものを選択している」
この言葉は、ロベルトバッジョのファンタジスタとしてのサッカーへの取り組み方をよく表している言葉です。
サッカーではシンプルなプレイが良いとされる傾向があるため、逆に難しい選択肢をシンプルに行うことができるなら、それはピッチ上の誰もが想像できないプレイになり、観るものを魅了するスペクタクルなサッカーにも繋がるわけです。
ファンタジスタとしてのスタイルを貫いたロベルトバッジョらしいといえる名言でしょう。
サッカーではシンプルなプレイが良いとされる傾向があるため、逆に難しい選択肢をシンプルに行うことができるなら、それはピッチ上の誰もが想像できないプレイになり、観るものを魅了するスペクタクルなサッカーにも繋がるわけです。
ファンタジスタとしてのスタイルを貫いたロベルトバッジョらしいといえる名言でしょう。
ロベルトバッジョの名言②
名言
▶「僕の知っているドーピングはただ1つ、努力だ」
ロベルトバッジョに限らず多くのサッカー選手が努力の大切さについて語っていますが、再起不能と言える大怪我を乗り越え、その後も怪我と戦い続けたロベルトバッジョが言うと凄さが伝わってくる名言です。
途方もない努力を行ってテクニックを磨き続けて、怪我を含めた自身のフィジカルコンタクトの弱さを克服し、ピッチ上でファンタジスタとして輝くために、ロベルトバッジョはすべてを捧げていました。
途方もない努力を行ってテクニックを磨き続けて、怪我を含めた自身のフィジカルコンタクトの弱さを克服し、ピッチ上でファンタジスタとして輝くために、ロベルトバッジョはすべてを捧げていました。
ロベルトバッジョの名言③
名言
▶「今を戦えない者に、次や未来を語る資格はない」
怪我と正面から向き合いながらサッカーをしてきたロベルトバッジョならではの名言です。
先のことばかりで目先の問題に立ち向かえなければ、すなわち未来などないというプロアスリート全般に通ずる名言でもあります。
怪我を抱えて動くことさえ苦痛な中でも、周囲の想像を超えるプレイで観客を沸かせてきたロベルトバッジョは、常に「今」を戦い続けていたのでしょう。
先のことばかりで目先の問題に立ち向かえなければ、すなわち未来などないというプロアスリート全般に通ずる名言でもあります。
怪我を抱えて動くことさえ苦痛な中でも、周囲の想像を超えるプレイで観客を沸かせてきたロベルトバッジョは、常に「今」を戦い続けていたのでしょう。
ロベルトバッジョの名言④
名言
▶「PKを外すことができるの者は、PKを蹴る勇気のある者だけだ」
1994年アメリカW杯の決勝でのPK戦でPKを外したことときの名言です。
この大会においてロベルトバッジョは起死回生のゴールで何度もイタリアを救い続け、辿り着いた決勝戦は世界最強の2トップと呼ばれたロマーリオとベベトを擁するブラジル相手に大接戦を演じ、試合はPK戦にもつれ込みます。
外せば負けるというイタリア代表最後のキッカーに選ばれたのがロベルトバッジョで、怪我によって満身創痍で戦い続けてきたロベルトバッジョにとっては、もうすでにPKのキックですら蹴ることが困難な状況でした。
この大一番にPKを蹴れるような選手はもうイタリアにはおらず、状況をすべて飲み込んで痛む足を無理やり振り抜いたシュートはあえなくゴールマウスを外れていったのです。
この大会においてロベルトバッジョは起死回生のゴールで何度もイタリアを救い続け、辿り着いた決勝戦は世界最強の2トップと呼ばれたロマーリオとベベトを擁するブラジル相手に大接戦を演じ、試合はPK戦にもつれ込みます。
外せば負けるというイタリア代表最後のキッカーに選ばれたのがロベルトバッジョで、怪我によって満身創痍で戦い続けてきたロベルトバッジョにとっては、もうすでにPKのキックですら蹴ることが困難な状況でした。
この大一番にPKを蹴れるような選手はもうイタリアにはおらず、状況をすべて飲み込んで痛む足を無理やり振り抜いたシュートはあえなくゴールマウスを外れていったのです。
ロベルトバッジョの名言⑤
名言
▶「成功したPKは忘れ去られるが、失敗したPKは永遠に忘れ去られることはない」
こちらもPK失敗について言った名言です。
ロベルトバッジョを語るのに1994年アメリカW杯のPK戦を外すことはできませんし、ロベルトバッジョという時代に恵まれなかったファンタジスタの存在を実によく表している出来ごとがPK失敗だからです。
世界最高レベルのテクニックを持つロベルトバッジョが、幼いころから幾度となく蹴ってきたPKを外すということが、どれだけ怪我による影響で苦しい状態でサッカーをしていたのかを物語っているからです。
ロベルトバッジョを語るのに1994年アメリカW杯のPK戦を外すことはできませんし、ロベルトバッジョという時代に恵まれなかったファンタジスタの存在を実によく表している出来ごとがPK失敗だからです。
世界最高レベルのテクニックを持つロベルトバッジョが、幼いころから幾度となく蹴ってきたPKを外すということが、どれだけ怪我による影響で苦しい状態でサッカーをしていたのかを物語っているからです。
ロベルトバッジョの名言⑥〜⑩
名言
▶諦めるより夢を見る方が性に合っている。
名言
▶3つの地味なゴールを決めるより、1つの華麗なゴールを決めるほうがいい。それがファンタジスタだ。
名言
▶リッピは私を亡き者にしたかった。しかしそれは不可能だった。
名言
▶私は、サッカーに恋をした。
名言
▶統率の取れた10人よりもでたらめなことをする10人の方が僕は好きだ。